被造物としての人間の



この日本では・・・、
被造物としての人間の、
人間としての生き方について、
真剣な問いかけのない社会なのです。
この世界を創造された創造主なる神と、
神の作品としての、
被造物としての人間という関係において・・・。

言い方を変えれば、
一番答えを出さなければならないものに答えを出さない・・・ということなのかもしれません。

キリストへの信仰がもたらすものとして。
人間社会を考える場合、
プロテスタンティズムの倫理と精神が、
人間社会に、経済や教育や医療などなどに、
暮らしの隅々まで、
創造的で効果的な、
想像力豊かに、大きな影響を与えるものと言っていいでしょう。
教会が、教会を取り巻く人間社会へ、
創造主なる神のために、
神のひとり子キリスト・イエスのみが救い主であることを告白し、
解き明かすなら・・・・。

聖書は、すべての人は罪深い存在だと明言します。
人間は生まれながらに罪深い性質を持って生れてくるのです。
罪人である人間の社会で作りだされるすべてのものは、
技術革新であれ経済発展であれ、
豊かになった便利になった暮らし向きも、
すべて罪の成せる業であることが明らかになるのです。
創造主なる神によって、
素晴らしいものとして創造された地球環境を、
人間は、人間の手によって壊しているだけなのです。
”環境に優しい”という言い方は、
人間の罪深さをごまかしたもののなにものでもありません。

被造物としての人間の、
人間としての生き方について真剣に問いかけない日本です。

メディアが、心の問題として宗教を取り上げるとき、
過去の宗教者の生き様について評するだけで、
今日の、当の人間の生きざまについて問いかけようとはしません。

いちばん答えを出さなければならないものに答えを出さない・・・ということなのかもしれません。

日本の社会では、さまざまな情報が満ちあふれているかのように見えますが、
実は、知らされていない情報も多くあることを知らなければならないのです。
与えられている情報に答えがないことも知らなければなりません。

知らされていない情報の一つに、
キリストの福音も含まれています。

ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
キリストの贖罪の出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事です。
この出来事こそ ”神の啓示 ”の出来事なのです。

イエス・キリストの十字架の出来事こそ、
私たち被造物としての人間にたいする。
創造主なる神の究極の決断と態度の決定なのです。

しかし、キリストの十字架の出来事の、
事の重大さを知らされていないのが、
私たちの社会、日本に暮らしている私たちなのです。

最も注目しなければならないのは、
私たちの安心とか健康とか、成功というものではなく、
創造主なる神の、
被造物としての人間にたいする態度なのです。

ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエスの十字架の死による贖罪の出来事なのです。

「 キリストは、神の御姿であられる方なのに、
神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、
実に十字架の死にまでも従われたのです。」

(新約聖書・ピリピの信徒への手紙・2章6〜8節・新改訳聖書)

ここで問題とされているのは、
創造主なる神の究極の態度の決定にたいする、
神の作品としての、
被造物としての人間の、
私たちの態度なのです。

「 実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)

神への態度がどうであるかの違いによって、
未来への希望が、
喜びのものとなるのか、
それとも、絶望となるのか違ってきます。


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

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Wrote up on May 26, 2013.