”救い”とか”罪のゆるし”とか
”救い”とか”罪のゆるし”という言葉が、キーワードが教会でよく使われるわけですが、
しかし、その内容や意味が詳しく語られなかったなら・・・、
ましてや、人間の可能性や、人の生き方などが語られるなら、
今日を充実して生きるための方法などが語られるなら・・・・、
自分が受け入れられ認められるための、
耳ざわりのよい言葉が語られるなら・・・、
”ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事 ”は、
いったい何の意味を持つのでしょうか。
ひとりの人が十字架にかかり死刑となり、
そして葬られ、三日の後に死人からよみがえったという出来事は、
いったい何の意味を持つのでしょうか。
聖書・バイブルに次のような記述があります。
「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。
誰がそれを知りえようか。」
(旧約聖書・エレミヤ書・17章9節・新共同訳聖書)
人間の心は何にもまして、とらえがたく、
はなはだしく堕落し悪に染まっている。
だれがその心を理解することができるだろうか・・・。
救いとか罪のゆるしという言葉が語られるのは、
イエス・キリストが生まれたということが語られるのは、
そして、イエス・キリストが十字架にかけられている理由が語られるのは、
私たち人間をも含めたこの世界が、
神の目からみて堕落しているからなのです。
私たちの日々の現実の姿を見ても、
さまざまな混乱や苦しみや悲しみや不平や不満に満ちています。
多くの社会や人たちが追いつめられ苦しい立場に立たされています。
実に混沌とした世界です。
この困難と混乱に満ちた世界から、
逃げることも救われることもできない現実が目の前にあります。
人の心が不平や不満に満ちていることすら気付いていない人もいるかもしれません。
私たちの、この現実はどこから来ているのでしょうか。
そして、そこからの救いはあるのでしようか。
私たち人間は、どのようにしてこの困難さに追い込まれたのでしようか。
人間のこの現実の苦境とは、いったいな何でしょうか。
キリストの教会は、その理由を、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事から、
私たちに解きほぐしていくのです。
そうでなければ、”救い”についても、
”罪のゆるし”についても、
私たちは理解できないのです。
仮にも、キリストの教会でイエス・キリストの十字架の出来事の、
意味と内容が語られないのなら、
私たちには、救いも罪のゆるしも理解できないでしょう。
北白川 スー
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Wrote up: 28 November 2008.