キリストへの信仰は、決して個人的なものではありません



キリストへの信仰は、決して消極的なものではなく、
すこぶる積極的で、建設的なものであるはずなのです。
" あるはず ”と表現したのは、
現実の日本のキリスト教の教会では、
どういうわけか、あるはずではないからです。

本来的な、キリスト教の信仰は、
日常の暮らしであっても、社会生活であっても、ビジネスであっても、
キリストへの信仰がある者として、
自己欲に打ち勝つ、冷静と節制とをもって、
信仰を広く言いあらわして生きて行くものなのです。

しかし大部分の日本人の感想は、その逆ではないでしょうか。
教会にたいする見方もそうでしょう。
教会にたいする期待も、
消極的な思いによって支えられているはずです。
日本のクリスチャンであっても、そうかもしれません。

日本のキリスト教の教会は、
日本の社会の負の側面を担うものなのだと、
そのように考えられているからです。

現代社会の病理の中でに傷ついた人たちの受け皿として、
教会は機能し、役目を負うものだと。

しかし、社会に居場所を見いだせなかった人にたいして、
教会に居場所を作ることが教会の役目ではないはずです。

日本人のだれもが、
キリストへの信仰というものは、
キリストによる自由と希望によって支えられた、
報いある人生が約束されたものとは見ていないでしよう。

キリスト教を成り立たせているもの、
教会と信仰とを生み出したもの・・・。
それは、
”ひとりの人がすべての人のために死んだ ”という出来事です。
神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による、
贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事です。
ですから、一人の例外もなく、すべての人が対象となるのが、
キリストへの信仰なのです。

この世界を、また人間をも創造された創造主なる神は、
被造物としての人間を必要とされています。
創造主なる父なる神は、
私たちを必要とされたからこそ、私たちを創られたのです。
創造主に栄光を返すために。

しかし、人類の始祖であるアダムとエバが、
父なる神に背いてしまったために、
アダムに続くすべての人類は、
混乱と混沌の中をさ迷い歩かなければならなくなったのです。
神に背いた出来事こそ、
人の思いに言葉に行為や行動に決定的な影響を与える、
人間の本性的なことがらの源となるものなのです。
生まれながらに負ってしまった罪深さということになります。

イエス・キリストの十字架の死と葬りと復活という出来事は、
人間の本性的なことがらを明らかにし、
十字架の出来事によってもたらされた解放と自由を、
神の怒りの裁きからの救いを明らかにしているのです。

父なる神に背いたことにより、
父なる神から切り離されてしまった人間たちにたいして、
神ご自身と、被造物としての人間との間に広がってしまった深い溝を埋めるために、
また、そのかけ橋として、
神のひとり子イエス・キリストを人としてこの地上に生まれさせ、
すべての人間の、神にたいする罪の代価を支払らわせるために、
十字架の上でその命をささげさせられたのです。
父なる神は、ひとり子イエスを死にわたすことによって、
神の作品としての人間を愛し、
神の作品としての世界を愛しておられることを証しされたのです。

このイエスの十字架の出来事は、
私たちが、自分で自分の達成や成功や救いを買い取ったり、
自分の力や知恵で達成や成功や救いを勝ち取ることができないことをあらわしているのです。

達成や成功や救いを得ようと思うなら、
イエスに聞き従うことしか道は残されていません。

父なる神は、私たちへの愛から、
愛ある贈り物としてキリスト・イエスを現わされたのです。
ですから、
自分たちを、神に背いている罪ある者として言い表し、
キリスト・イエスを、自分の主権者として受け入れるなら、
父なる神から贈り物として、
成功や達成や救いや・・・が与えられるのです。
個人的な達成や、個人的な成功や、個人的な救いではないことは、
疑いなくそうだと承知されるものなのです。

父なる神は、私たちを人と人との関係において造られました。
アダムとエバ、夫婦であり家族であり共同体であり、
そして、神と神の教会として造られたのです。

夫婦であり家庭であり、親と子であり、友と友であり、
ありとあらゆる広がりのあるものとして造られたのです。
一人として必要とされない人はいないのです。

神のひとり子イエス・キリストは、私たちのために、
はずかしめられ、ののしられ、さげすまれ、
ムチ打たれ、苦しみ、十字架にかけられ、
死ぬほどに私たちを愛してくださったのです。

地上の私たちは、自己中心と、
自分の得になることばかり追い求めます。
キリスト・イエスが十字架の出来事であらわされたのは、
死ぬほどの愛なのです。
それは、仕えずにはいられない愛なのです。

「キリストは、神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、
人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。」

(新約聖書・ピリピの信徒への手紙・2章6〜8節・新共同訳聖書)

現代社会に生きる私たちは、
便利さを求め、豊かさを求めれば求めるほど、
人と人との間の溝は広がって行くのではないでしょうか。
イエス・キリストが、その命をささげられたのは、
人として、互いに補いあい支えあうことを、
満たしあうことを示されたのではないでしょうか。

日本人は、信仰を、個人的なものとして捕える傾向にあります。
しかし、キリストへの信仰は、決してそうではないのです。
広がりのあるものなのです。

「わたしのいましめは、これである。
わたしがあなたがたを愛したように、
あなたがたも互に愛し合いなさい。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・15章12節・口語訳聖書)

キリストは、キリストが私たちを愛したように・・・・、
そのところに立つことを、私たちに求めている。
見方を変えれば、社会的なリーダーシップを、
教会に、クリスチャンに求めていると考えてもいいかもしれない。

そのためにもイエスの十字架の出来事は必修なのです。


北白川 スー

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Wrote up on December 30, 2013.