イエス・キリストへの信仰
イエス・キリストへの信仰というものは、
つまり、イエス・キリストへの信頼というものは、
イエス・キリストを自分の導き手として、
自分をリードしガイドしてくれる存在として認識することなのです。
イエスはキリストです。
メシア・救い主なのです。
神のひとり子イエスがキリストだということは、
私たち人間は、ひとりの例外もなく、
罪深く、その状態から逃れられない状態にあることを示しています。
私たち人間が逃れることも救われることもできない状態でなかったら、
救い主・メシアがの世界に生まれ来る必要などないのですから。
そのキリストに信頼をよせるということは、
自分は、迷いの中にどっぷりとつかっていることをあらわしているのです。
しかし、自分のプライドを保つことが危ぶまれている場合、
自分のプライドを保つことによって安心を得たいと、
それが目的で、キリスト教の信仰を持とうとするなら、
教会に救いを求めてやって来る人の中には、
自分の生き方にたいして肯定的な言葉や態度を、
同意を取り付けることによって安心を得たいと・・・。
信仰によって誇りを持とう・・・・と。
このケースは、まったくと言っていいほど、
本来のキリスト教の信仰から外れたものなのです。
聖書・バイブルは、
「・・・・あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。
そのような高ぶりは、すべて悪いことです。
・・・・・なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」
(新約聖書・ヤコブの手紙・4章16〜17節・新改訳聖書)
「神に近づきなさい。
そうすれば、神は近づいてくださいます。
罪人たち、手を清めなさい。
心の定まらない者たち、心を清めなさい。
主の前にへりくだりなさい。
そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」
(新約聖書・ヤコブの手紙・4章8・10節・新共同訳聖書)
人間は、迷いから覚める前に、
まず、自分はすっかり道に迷っていることを自覚しなければならないのです。
しかし多くの人は、道に迷っているとは思ってはいません。
自分を信じて生きていくことが最も美しく正しいことだとさえ思っています。
だから苦しんでいるのです。
聖書・バイブルが語っているのは、
すべての人間は、だれひとりの例外もなく、
もともと道に迷っていて、
常に、誤った方向へ行こうとしているのに、
それが分かっていない・・・と言っているのです。
しかし、多くの人は自尊心を傷つけられることを恐れています。
手放すことができないのです。
多くの人は、自分の生き方は正しいと思っています。
人は、
イエス・キリストの十字架の死による贖いの業(あがないのわざ)という出来事に出会って初めて、
自分の立っているところが実に不安定なところなのだと気づかされるのです。
神のひとり子イエス・キリストが、
なぜ、この世界に生まれ来られたのか・・・・・。
なぜ、罪人として十字架刑によって死なれたのか・・。
なぜ、葬られた後、三日の後に死人のうちから復活されたのか・・・・。
どうしょうもない状態に、私たち人間は置かれていることに気づかなければ、
救いについての正しい理解は遠いものなのです。
北白川 スー
関連記事・「キリストへのプロローグ」
表紙にもどります。
エッセイの部屋へもどります。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on 29 October 2010.