福音は、すべて信じる者に救いをもたらす神の力である



この日本では、クリスチャンと言えば少数派に属します。
かと言って、キリスト教の教会が見向きもされないわけではないのです。
日曜日に行われる礼拝に、新しい人が来られることも珍しくはありません。
だからと言って、クリスチャン人口が増え続けているというわけではないのです。
増えた数だけ、教会を去って行かれる方もおられるのです。
それが現実です。
去って行かれた理由はさまざまでしょうが、
・・・ここは、私のいるところではないと・・・、

自分の生活にとって、教会は、
それほど重要な役割を果たしているとは思わないし、
期待を寄せるほどでもない。
必要とするものでもないと・・・・。

それが日本のキリスト教の現状なのです。

「福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」
この言葉は、パウロがローマにいる信徒たちへ書き送った手紙の一節であり、
この手紙全体に貫かれたテーマでもあるのです。

・・・福音は、すべて信じる者に、救いを得させる、救いをもたらす神の力である・・・・、

この言葉はいったい何を意味しているのでしょうか。

さて、
現代の日本において、
今にいたるまで一度も教会に足を踏み入れたことのない人が、
教会のとびらを開けるとしたら。

それは、今までは閉ざしていたか、
もしくは無関心であったものが、
興味を抱いて、
心を開いて教会にやって来たことを意味しています。

少なくとも、心を開き、受け入れる用意があることを意味しているのです。
キリスト教への期待もあることでしょう。
真理・真実と呼ばれるものにたいする積極的な姿勢のあらわれかもしれません。
または、迷いに迷ったあげく意を決して教会のとびらに手をかけられたかもしれません。
どちらにしても、イエスとも、キリストとも、神とも呼ばれるものにたいする、
自分自身の心の姿勢の変化のあらわれなのです。
キリストの教会に、
興味と大きな期待を抱いて足を踏み入れたと言えるでしょう。

そのとき・・・教会では何が語られていたのでしょうか。
いいえ、何が語られていなければならないのでしょうか。
その言葉こそ、先に述べました言葉・・・・、

「福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」
福音は、救いをもたらす神の力なのだと。
パウロが、ローマにいるクリスチャンたちに伝えようとした、
この言葉の意味するところのもの、
”キリストの福音 ”こそ、そうなのだと・・・・。

仮にも教会で、まったく別の言葉が語られているとしたら、
それは、期待を裏切るものになるでしょうし、
心を開き、受け入れようとした心を、再び閉ざしかねないのです。

その人にとってキリストの福音とは、
私たちに知られることを必要とするようなものではなく、
すでに存在し、すでに光り輝いているものなのです。

イエス・キリストは、決して人知れず死なれたのではありません。
多くの人の前で、ののしられ、あざけられ、苦しみの中でその命を落とされたのですから。

しかし、それは、今まで、聞いたことも、見たことも、
心に入って来たこともない出来事なのです。

初めて聞く出来事であり言葉なのです。
ですから、おどろきの他の何ものでもないでしょう。
実にアメージングな、おどろきの言葉なのです。
それこそが、イエス・キリストの十字架の出来事なのです。
つまり福音です。良き知らせなのです。

イエス・キリストの死と、葬りと、復活という、
いまだかつて耳にしたことのないおどろくべき出来事なのです。

なぜイエス・キリストは十字架に死なれたのでしょをうか。
私たちの本質的な性質を、その身に背負い、
私たちに代わって、十字架に死に渡されたのです。

それこそが福音の本質なのです。
パウロが、明らかにしようとした事柄そのものなのです。

では「神の力」とは、力とは何でしょうか。
神の力とは、何ものにも比べることのできない神の現われを、
私たちが認識することによって作用するものなのです。

それは、人の模範になるような行為や、慈善や孝行と言った、
決して人がキリスト教的なことだと考えるようなものではありません。

神は、私たちに、イエス・キリストを通してご自身が何であるかを明らかにされたのです。
イエス・キリストを通してご自身がまことの神であることを明らかにされたのです。
私たちがキリストの福音を聞いたことによって、
福音によって、福音のおかげで、まことの神を見い出した瞬間なのです。

仮にもキリストの教会で、 イエス・キリストの十字架の出来事が語られていないとするならば。
実は、それが現実に目にもし、また聞きもする教会の風景なのです・・・。
そこは、神の教会ではないし、
神と離反していることを意味しているのです。

イエス・キリストの十字架の出来事が語られていないなら。
そこで論じられているのは、
わずかな人間的な洞察であり、思考であり、
役に立ちそうにない知識でしかないことになります。

それでは「救い」というものは、決してやっては来ないでしょう。

キリストの福音、すなわちイエス・キリストの十字架の出来事は、
私たちに神を見い出させるわけですから、
私たちに信仰を要求するものでなければなりません。

つまり、イエス・キリストの十字架の出来事の、意味と内容とを知ることを、
それだけではなく、受け入れ、かつ承認することをも求めるのです。

そのようにして、キリストの福音が私たちに信仰を要求すればこそ、
信じる者にのみ、キリストの福音は救いをもたらす神の力となりえるのです。

私たちに欠けていたものが、私たちを助けるものとなるのです。
それこそが救いであり、福音によってもたらされた救いなのです。

では、イエス・キリストの十字架の出来事の意味や内容とは、
私たちに迫ってくるキリストの福音というものは、
イエス・キリストの死と、葬りと、復活という出来事は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事は、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事は、
私たちにとって何を意味するのでしょうか。

この意味や内容こそ、常にキリストの教会で繰り返し繰り返し、
単純明解に語られなければならない内容そのものなのです。
またそうであらねば、キリストの教会とは言えないのです。
教会は、キリストそのもの、キリストのからだそのものなのですから。

もしも、心を開き、受け入れる準備のできた人にたいして、
キリストの福音が語られず、
キリストの福音を、”すでに聞いたもの 、受け取ったもの”という前提に立って、
信仰の確信とか、クリスチャンらしさをさらにとか、
クリスチャンとしての責任とかと言うものが語られるなら、
クリスチャンという人物像を要求されるなら。
期待にふくらんだ心を閉ざし、
キリストの福音から、ますます遠ざけることになるだけなのです。

キリストの福音は、いくどとなく聞いても、
そのつど新しく、聞いた人に感動を与え、心を打つものなのです。

「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、
すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。
これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである。」

(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・1章16〜17節・口語訳聖書)
(『』内の言葉は、旧約聖書・ハバクク書2章4節・参照)

現代的な、言い方をしましょう。
勝利を目指すなら、
基本的なコンセプトこそ、もっとも重視すべきことなのです。
基本的なコンセプトとは、すなわちキリストの福音なのです。
やみくもに人間的な努力を重ねるのではなく、基本に立ち帰ることです。
”基本こそ力 ”なのですから。

では、キリスト教が言うところの、
聖書・バイブルが言うところの・・救い・・とは、
いったい何を意味しているのでしょうか。
何からの救いなのでしょうか。

救われなければならないということは。
ひとりの例外もなく、
すべての人は、救われなければならないほどに、
危機的な状態の中にあることを意味しているわけです。

多くの人は、人間の持つ本質的な性質から来るところの危機的な状態に、
自分が置かれているとは思ってはいません、
ですから、伝える人がなくて、どうして気づくことができるでしょうか。


北白川 スー

関連記事・「キリストへのプロローグ」

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Wrote up on October 17, 2016.