ライト・アップ


 私の住んでいる京都では、夜ともなれば京の洛中洛外を問わず、春の桜、秋の紅葉の季節を問わず、有名無名を問わず、

 いたるところの寺や神社はライトアップされ多くの観光客を引き付けています。

 いつごろから始まったかはさだかではありませんが実に盛んになりました。


 キリスト教の教会といえば、まずライトアップされていません。

 聖書・バイブルでは、


 イエスは、また人々に語ってこう言われた。

 「わたしは世の光である。

 わたしに従ってくる者は、やみのうちを歩くことがなく、

 命の光をもつであろう。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・8章12節・口語訳聖書)


 イエス・キリストに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、命の光りを持つ・・・。

 でもしかし、教会の礼拝を覗いて見れば、

 漂う空気はどこか重く暗く、

 何かの苦しみか、何かの重荷を背負っているのでしょうか、

 これから先、生きていく意欲を失っているかのような、

 私は不幸でいっぱいですと言わんばかりに、

 うちひしがれた後ろ姿をみせる人をよく見かけます。

 キリストによって救われた喜びとか、明日への希望に心おどられせているとか・・・、

 感謝に満ちた表情を見せる人は、とても少ないのが現実です。


 教会が光り輝いていなければ、

 キリストの教会が希望と愛と信仰によって光り輝いていなければ、

 人は引き付けられないことでしょう。

 キリストの福音で光り輝いていなければ、

 人は教会には来ません。


 人には何がしかの苦しみや悲しみ、そして不足や不満があるものです。

 キリスト教は、それらの人間の苦悩が何であるかを明らかにします。

 解決できない何かがあって、どうしたらよいのか迷い苦しんでいる・・・・、

 人間の言うに言われぬ苦悩とは、いったいどこから来ているのか。

 これを明らかにしなければ、そこからの救いも明らかにはなりません。

 それを明らかにしてこそ教会は光り輝くのです。

 ひとりの人、イエス・キリストが、

 すべての人のために十字架にかかり死んだと言う出来事を

 その内容と意味とを明らかにしてこそ、

 すべての人の苦悩を、その身に背負い、苦しみのうちに死なれたという出来事が、

 説き明かされてこそ、

 すべての人間にとって教会は光り輝くのです。


北白川 スー

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Wrote up: 03 December 2008.