自分の行きたいところへ
小さい子どもが、だだをこねて、親の手を引っぱっている・・・、
自分の行きたいところへ連れて行こうとして・・・。
これと同じような情景をキリスト教の教会でも見受けます。
親の手とは、キリストの手に違いない・・・。
聖書・バイブルは次のように伝えている。
イエスは言われた。
「わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・14章6節・新共同訳聖書)
私たち人間は、実に、これといった方向も持たず、さ迷い続けて生きていると言っていい。
人生の目標も定かではない・・・、
確かにそうだという方向性も持たず・・・、
どこが最初で、どこへ行こうとしているのか、
今どのあたりにいるのかも分からず・・・。
道を見失い、
どこへ向かって進んでいるのかも分からず・・・、
さまよい続けている。
それが人間の現実の姿ではないだろうか。
人類は間違いなく滅びへとひた走っている。
聖書・バイブルは間違いなく終末論である。
イエス・キリストこそが、
私が道であり真理であると言われても・・・。
自分自身の義にこだわっている者にとっては、
自分のプライドや自己主張にこだわり続けているなら、
人の意見などに耳を傾けず、まったく気にかけないのだから。
自分こそ正しいと思っているのだ・・・。
だから救われなければならないのに・・・・・。
私たち人間を救いへと導こうとしている手こそ、
その手こそ、実はイエス・キリストが差し出されている手であることを知らずに。
自分をリードしガイドし、平安と希望へとつれて行こうとしているにもかかわらずに。
キリストの手を引っぱって、
だだをこねて自分の行きたいところへ連れて行こうとしている私たち・・・。
自分の行きたい方向へと行くことができるようになるのが福音なのだろうか。
そうではあるまい、
強いて言うならば、
悔い改めから始まるのではないだろうか。
神の支配が近づいたから悔い改めよと・・・・。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
(新約聖書・マタイによる福音書・3章2節・新改訳聖書)
しかし、多くの人は気づいてはいない・・・・。
だからキリストの教会において、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざについて語られ・・・・、
その内容と意味とが解き明かされなければならないのです。
その出来事こそが福音そのものだからです。
北白川 スー
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Wrote up: 06 April 2010.