クリスチャンの結婚・宗教観の違い



クリスチャンとそうでない人との結婚について思いを巡らしていて、
結婚というものにとって信仰というものが、
宗教観というものが、妨げとなり、
互いの意志や気持ちが通じないこともあり。
またはその逆に、
強い絆で結ばれる要素でもあると強く考えさせられます。

クリスチャンでない人が、
結婚相手を選択する幅が広いと思っていても、
クリスチャンにとっては、
その幅は、とても狭いのが現実なのです。
信仰というものによって、
その幅が限られてくるものとクリスチャン自身が考えているからです。

キリスト教国であっても仏教国であってもイスラム教国であっても、
それぞれの宗教観というものがその社会の、
その社会に暮らす人たちの生活の根底に、
その基いに流れています。

日本では、神道そして仏教の習慣が、
暮らしの隅々にまで知らず知らずのうちに強く根付いています。
冠婚葬祭に代表される祭りごとに、
いろいろな厄日や節句など、
経済に生活に影響を与えないものなどひとつとしてありません。

ですから宗教観の違いに極端な差異を見せる、
クリスチャンと神道・仏教に根付いた人との結婚ともなれば、
その違いを乗り越えて、またはそれらを省くか、
または、それらを差し引いた結婚生活というものは、
本当に成り立つのだろうかと思わせるのです。

ノンクリスチャンが、そこまで深刻には考えていないでしょう。

どちらにせよクリスチャンの信仰というものは堅く、確固たるものですから、
神道や仏教的な伝統的な習わしの上に成り立っている、
ノンクリスチャンの暮らしの中での戸惑いというものは、
お互いに量りしれず大きいはずです。

時として、その違いを認識してもらわなければならない場合が起きてきたとき、
ノンクリスチャンにキリスト教信仰としての応え方というものを理解させようとすれば、
それは大変な労力が必要になることでしょう。
ただ生活様式の違いではないからです。

信仰の核心を未信者の方に、
なぜクリスチャンになったのかを、
なぜ信仰を持つに至ったのかを説明しようとするとき、
それは神に出会ったということを説明することでもあるのです。
そして神と出会うことによって人間が変わったということを説明しなければならなくなるのです。

神との出会いは、霊的な出会いでもあります。
しかし、そのことを伝えようとすることは至難の業と言ってもよいでしょう。
それは体験した者でしか分からないのですから。

キリストとの出会いというものは知識によったのではなく、
出会いを実際に体験したと言ってもよいくらいだからです。

霊的な体験によって神と出会ったクリスチャンであっても、
後になって、
聖書に書かれている言葉からその確証を理解することになります。
だから、キリストとの出会いを知識の言葉で伝えようとすること自体無理があるのです。

「ここであなたがたに言っておきたい。
神の霊によって語る人は、
だれも・・イエスは神から見捨てられよ・・とは言わないし、
また、聖霊によらなければ、
だれも・・イエスは主である・・とは言えないのです。」

(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・12章3節・新共同訳聖書)

神に出会うことなど絶対にあるものではないと考えている人に、
体験で得たものを、
知識によって説明し伝えようとすることは不可能に近いのです。

神と出会うということは、
それは必ずしも目で見える形で起こったのではありません。
実際の姿で神を見たということではないのですから。

使徒パウロは、新約聖書の中で語っています。
「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。
それは神の知恵にかなっています。
そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、
お考えになったのです。」

(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・1章21節・新共同訳聖書)

・・私は神に出会いました。・・とでも言えば、
大抵の人は、・・なんて愚かな人・・と心の中で思うでしょうし。
・・困ったやつだ・・と、
ばかばかしい話しだと問題にせず、はねのけてしまうでしょう。

見えない神を信じて信仰を持つということは、
まず自分は愚かな者であるという認識に立たねばできないことだからです。
それが信仰というものの本質であり実態です。

回りを見てみましょう、
私たちの世界というものは、
乱れた困難の中にある人間社会です。
決して平和であるとは言えないのではないでしょうか。

私たち人間が基本的に盲目で愚かで弱い存在だという認識に立たねば、
その困難を見据えることも、
そこからぬけ出すこともできないはずです。

人間が正しく、賢く、よく物事の道理が分かっているのなら、
人間社会の混乱など起きて来ないはずです。

さらにパウロは言っています。
「だれも自分を欺いてはなりません。
もし、あなたがたのだれかが、
自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、
本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。
この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」

(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・3章18〜19節・新共同訳聖書)

私たちのできることは、
ただ、知恵のある者となるために愚かになることだけではないでしょうか。

見えるものにではなく、
見えざるものにこそ目をむけることを神は求めているのです。

クリスチャンとノンクリスチャンとの違いは、まさにここにあります。


北白川 スー

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Wrote up on February 11, 2016.