十字架を知らない日本
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クリスチャンって、神だのキリストだの、現実離れしてんじゃない・・・。
キリスト教は、「すべてが神から始まる」ということを前提に話しをすすめます。
「神」という存在と人間とのかかわりを前提にしているわけです。
聖書の最初の最初は、次のように始まります。
「はじめに神は天と地とを創造された。」
(旧約聖書・創世記1章1節・口語訳)
でも、神というものの存在を、頭に考えもない場合はどうなるでしょうか。
人生の道すじを考えるとき、
神がおられることを前提としないかぎり答えが出てこないと言われても・・・。
神の存在を前提に話されたのでは、最初からついていけません。
聖書は、私たちの帰るところは、神のところだと語っているわけですが、
それは答えですから、
そこへ行き着くことが問題なのに、その答えを前提にされたのでは話しになりません。
聖書は、神は聖書を通じて私たちに、私たちの送るべき人生を語られると語っています。
私たちは、だれもが幸せな生活を送ることを望んでいます。
自己実現を目指して生きがいを考え、今を充実して生きたいと願っています。
よい結婚をすること、家庭に恵まれ、よい職業につき豊かな経済を得ること・・・。
そのために、新しいスキルを身につけたり、さまざまな努力を重ねます。
ときには占いに頼ったりもします。
もしも、聖書の言葉が、私たちに豊かな人生を約束してくれるのなら、
心に安らぎを、いやしを、また人生の達成感を味あわせてくれるのなら、
何をしたらよいのか分からないとき、リードしてくれるなら、
しかし、私たちは、宗教と聞けば消極的なものと考えています。
もし神が実際におられるのなら、どうやってその神を知ることができるのでしょうか。
神を見ることのできない私たちは、どうやってその姿を見ることができるのでしょうか。
キリスト教的に言えば、神から切り放され、神との間に広がる深い溝の向こう側にいる私たちにです。
イエスは次のように語られました。
「もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。
しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書14章7節・口語訳)
つまり、イエス・キリストを知ることによって、父なる神をも知ることになると語っています。
ここで、やっとスタートラインが見えてきました。
イエス・キリストを知るということは、
イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とを知るということです。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)
日本の多くの人たちは、
イエス・キリストの十字架の出来事は知らないし、知らされてはいません。
あまりにもイエス・キリストを知らない私たちです。
北白川 スー
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on April 13, 2015.