死とか最後の審判とか
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 人間の死とか、最後の審判ということがらを聞くことの少ない、
 日本のキリスト教の教会のメッセージです。
 しかし、キリスト教の信仰にとってなくてはならないものなのです。
 知らないままで信仰を持つことは、
 その人にとって将来にかかわる大きな問題を残すことになります。
 キリスト教が言うところの ” 救い ”とは、
 まぎれもなく、地獄をまぬがれることが救いなのです。
 どのようにして人間の生に ” 死 ”が入ってきたのか、
 それに関係して、最後の審判があること。
 生きている者も、かつて生きていた者も、
 天国か地獄かの判定があることを。
 そして、その最後の審判に深くかかわる出来事が、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ ”あがないのわざ ”であるということ・・・・。
 「 主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、
 わたしたちが義とされるために、
 よみがえらされたのである。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・4章25節・口語訳聖書)
 クリスチャンであっても、
 私は罪など犯してはいないと主張する人の多い日本です。
 罪がなければ、イエス・キリストの十字架の死は意味を失ってしまいます。
 私たち人間は、創造主なる神に背き罪に落ちました。
 「 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、
 罪によって死が入り込んだように、
 死はすべての人に及んだのです。
 すべての人が罪を犯したからです。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章12節・新共同訳聖書)
 ですから、神による裁きが待っているのは当然なのです。
 その裁きからの救いこそ、
 イエス・キリストの生と死と復活によって備えられた、
 神による救いなのです。
 その救いの出来事こそ、
 イエス・キリストの十字架の出来事なのです。
 「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 独り子を信じる者が一人も滅びないで、
 永遠の命を得るためである。
 神が御子を世に遣わされたのは、
 世を裁くためではなく、
 御子によって世が救われるためである。」
 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)
 知らないからといって安心していられる問題ではないのです。
 今や、この世の終わりのとき、
 神の裁きは近づいています。
 福音の宣教が急がれるときなのです、この日本において。
 多くの人のところへ、福音は、届いていないのですから。
北白川 スー
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Wrote up on 08 October 2011.