つまずきの石



キリスト教の教会やクリスチャンが、
熱心に社会的な問題に取り組んでいる姿をよく見かけます。
原発再稼働であったり憲法九条であったり・・・と。

さらに、金銭や病気や人間関係などに、
さまざまに苦しめられている人たちの必要に答えたり・・・。
心に病を抱えている人たちのケアであったり・・・。

現代社会の病理に苦しめられている人たちのための、
受け皿としての働きや役目を、
社会の中で負っています。

「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、
この熱心さは、
正しい認識に基づくものではありません。
なぜなら、
神の義を知らず、
自分の義を求めようとして、
神の義に従わなかったからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章2〜3節・新共同訳聖書)

キリスト教の教会やクリスチャンは、
社会の中で、社会的な役目を負っているのでしょうか。
それが信仰なのでしょうか。
それが教会なのでしょうか。
聖書・バイブルは、そのように書いているのでしょうか。

「では、どういうことになるのか。
義を求めなかった異邦人が、
義、しかも信仰による義を得ました。
しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、
その律法に達しませんでした。
なぜですか。
イスラエルは、信仰によってではなく、
行いによって達せられるかのように、考えたからです。
彼らはつまずきの石につまずいたのです。
見よ、わたしはシオンに、
・・つまずきの石、妨げの岩を置く。
これを信じる者は、失望することがない・・
と書いてあるとおりです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・9章30〜33節・新共同訳聖書)

つまずきの石とは、イエス・キリストのことです。
教会やクリスチャンが、
熱心に社会的な問題に取り組めば取り組むほどに、
イエス・キリストの十字架からは遠ざかっていきます。
的を外して生きていると言っていいでしょう。

聖書は、信仰による義を、
神にある正しさを求めているのであって、
決して、行ないによる義を求めているのではありません。

「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、
キリストの体を造り上げてゆき、」

(新約聖書・エペソの信徒への手紙・4章12節・新共同訳聖書)

・・・と聖書に記述してあるとおり、
教会やクリスチャンの奉仕の働きとは、
まぎれもなくイエス・キリストの十字架の出来事を、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の内容と意味とを、
広く人々に知らせることを言っているのです。
福音の宣教・・・をなのです。
教会とは、神の啓示が語られる所なのですから。

教会やクリスチャンが、
社会的な問題に取り組めば取り組むほどに、
イエス・キリストから遠ざかって行きます。
つまり、つまずきの石につまずいているのです。
いえ、つまずいていることすら気付いていないかもしれません。
そうであるなら、
決して、キリストが言うところの救いには達しません。
救いとは、神の怒りの裁きからの救いなのですから。


北白川 スー

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Wrote up on September 22, 2013.