何からの救いなのか、何を信じるのか
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「 神が御子を世につかわされたのは、
世をさばくためではなく、
御子によって、この世が救われるためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章17節・口語訳聖書)
新約聖書のヨハネの福音書の有名な言葉です。
どうでしょう。
何から救われなければならないと思われますか。
神のひとり子であるイエスが、
人としてこの世界に来られて、
罪人として十字架にかけられ、
処刑され、葬られ、三日の後に死人より復活されたという出来事が、
つまり、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が、
なぜ福音であり、救いなのか・・・ということなのです。
キリスト教の信仰の本質であり基本的なことなのです。
教会がこの世の中に建っている理由でもあり、
信仰を成り立たせているそのものなのです。
教会で耳にし、また見うける風景は、
教会にやって来る人たちの思いは、
やはり、自分の生き方にたいするはげましや肯定を得たいという思いです。
あなたの生き方は、その通りで間違ってはいません・・・・と。
それが、救われたいという思いです。
あなたは何を信じているのですか・・・とという問いにたいして、
自分の生き方を信じています。
でも、うまく行きません、まわりが受け入れてくれません・・・。
ですから苦しんでいます・・・・と。
ここで明確に言います。
あなたが望んでいる生き方通りになることが救いではありません。
あなたの今の苦しみや困難や試練は・・・・。
本当に大変なことでしよう。
しかし、それは一時的なことであって、
本質的なことではないのです。
あなたの試練は、神にとってはチャンスなのです。
今あなたは、あなたの人生を、
見直すチャンスのときなのです。
自分の人生において、考えられない試練や困難や悲劇がおきたとき、
それは、実は、新しいことを始めることのできるチャンスのときなのです。
あなたのものの見方や考え方ややり方を見直すチャンスなのです。
「 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・16章8節・新改訳聖書)
キリスト教の信仰は、
一時的な、場当たり的なことを教えるものではありません。
これから続くであろう長い人生において、
すべての土台となり、人生を支えるものなのです。
救いとは、新しい創造です。
まったく新しい人生を歩むことのできる創造なのです。
キリストによって救われたという喜びの中で、
新しい人生を歩むことができるもの、
それが、祝福されたクリスチャン・ライフそのものなのです。
「 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。
古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」
(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章17節・口語訳聖書)
なぜなら、
イエス・キリストは、私たちの罪のために死なれたのですから。
北白川 スー
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Wrote up on 06 July 2011.