クリスチャンたちへのあいさつ



キリスト教へ改宗して、
クリスチャンになった人たちの日々の暮らしには、
どのような変化があらわれるのでしょうか。
聖書・バイブルの中で「使徒パウロ」がよく用いることで有名な、
また、教会の礼拝でもよく耳にする定型文のように用いられる聖書の文節があります。

「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。
わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章7節・新共同訳聖書)

”父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。”
キリスト教の教会の礼拝でも広く用いられる文節です。

ローマの信徒への手紙 ”ローマ書 ”は、
パウロが一度も顔と顔とを合わせたことのないローマにいる信徒たちにたいして書かれたものです。

キリストの弟子パウロは、
キリストによって愛され、呼び集められ、聖徒とされたローマの信徒たちに、
”同じ信仰の対象 ”を持った者として、共に歩む者としてのあいさつを送っています。
イエス・キリストを信じてキリスト教へと改宗した人たちの暮らしには、
父なる神と、イエス・キリストによる平安と恵みがやってくると言っているのです。

”平安と恵み ”が、やってくる・・・。

しかし、イエス・キリストを信じて信仰を持ったものの、
キリスト教へと改宗する前となんら変わらず、
不安や混乱や心配などが依然として今もなお続いているとしたら。
心配や不安や混乱や痛みなどから解き放たれていないとしたら・・・。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。
古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

(新約聖書・コリントの信徒への第二の手紙・5章17節・新共同訳聖書)

キリストを信じて洗礼を受けた者は、
その人は、古い体から新しい体へと新しく造られた者なのだと聖書は語っています。
キリストを信じることによって、
罪の奴隷から解放されて自由になったのです。

しかし、不安や心配や混乱が、前のままと同じように続いていたら。

クリスチャンであっても、
この日本の地域社会で暮らす以上・・・。
地域社会の義務や義理というものに縛られ続けなければなりません。
義務を返さなければならない社会。
義理を欠くことを問題にする社会・・・。

それが、不安や、あせりや、いらだちとなってクリスチャンを苦しめているのです。

ここで、もう一度見つめ直さなければならないのは、
イエス・キリストの十字架の出来事です。

イエス・キリストの十字架の死と、葬りと、復活という出来事をです。

私たちが、イエス・キリストの十字架の出来事に、
わが身を向けるとき、
その出来事に視線を注ぎ、耳を傾けるなら・・・。

父なる神の、私たちを愛してくださっているがゆえの、
血をにじませ苦しみをもいとわず、
命を十字架に差し出されたキリストの姿を見ることになるのです。

はずかしめられ、ののしられ、ムチ打たれ、
十字架の死にまで従ったイエス・・・。
そのキリスト・イエスの姿を見い出したとき。

心地よさを求めていた、
私たちの心の愚かさを知ることになるのです。
心地よさや豊かさではなく、
自らの立場や考え方の評価を守ることに熱意を傾けるのでもなく、
父なる神の愛を知ることによって、
自分の愚かさを知るときこそ、
それが何ものにも代えがたい平安であり恵みのときとなるのです。

この平安こそが、暮らしの秩序と安定を生み出す源となるはずなのです。

信教の自由が保証されている日本ですが、
クリスチャンとして生きて行くことの難しい社会に違いはありません。

ですから、そうである以上、
この日本においてキリストの福音が明らかにされることが、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が、
広く説かれ解き明かされなければならないのです。


北白川 スー

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Wrote up on December 28, 2013.