人間の罪について


 人間の罪について、・・その罪とは何かと問えば・・・

 どのような理解が返ってくるのでしょうか・・。

 現実に犯した罪、社会の法やルールに反した事柄や、道義的・倫理的な問題について罪意識を抱いているのでしょうか。

 その過ちについて強くまた重い自責の念を抱いているのでしょうか。

 自分の犯した過ちに押しつぶされそうになっているのでしょうか。

 だから、その罪の意識からの解放が救いなのか・・・、

 その罪への赦し・・具体的な過ちへのゆるしが赦しなのか・・・・。

 その過ちとは、社会や環境によって、その影響が引きがねとなって罪を犯してしまうのでしょうか・・・。

 自分は悪くはない、まわりがそうさせたのだ・・・。

 では、

 その罪を引き起こした、根本的な事柄が明らかにされているのでしょうか。

 つまり ” 原罪 ” について、

 人間の本性的なものについて、

 人間が生まれながらに負っている性質について・・・。

 つまり人間の罪について、

 人間の持っている本性的な事柄が問題にされなければ、人間のすべてに、

 人間が抱く思いであれ、人間が発する言葉であれ、

 人間の行為や行動であれ、

 それらを起こさせる源について語れなければ・・・。

 ”人間のすべての背景 ”に原罪があるということが語られなければ、

 救いについても赦しについても語ることは出来ないのです。

 聖書・バイブルは、

 すべての人間に原罪があることを前提としています。

 そうでなければ、神のひとり子イエスがキリストとして、

 メシア・救い主としてこの世界に生まれ来る必要などないのですから。

 イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)の出来事・・、

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事・・・、

 しかし、私たち人間は、自分に罪があるなどと思いたくありません。

 多くの人は、そのように信じています。

 かたくなに信じようとします。自分は罪など犯してはいないと・・・。

 それが現実の私たちの姿です。

 そうであるからこそ、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ・・・が、

 くりかえしくりかえし語られ、

 その内容と意味とが解き明かされなければ、

 私たちは、私たちの本性的な性質というものを理解することはできないのです。

 私たちの本性的な性質が明らかにされてこそ、

 そこからの解放というものが明らかとなり、

 私たちは重い重荷を降ろすことができるのです。

 罪に死ななければ、罪からの解放はありません。


 「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

 わたしたちはこう考えます。

 すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。」

 (新約聖書・コリント人への第2の手紙・5章14節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 22 June 2010.