人生の挫折の証し



キリスト教関係の雑誌には、
どうしてなのかと思わせるぐらいに、
・・人生に挫折を味わったおかげでイエス・キリストに出会った・・・と、
挫折からの立ち直りとでも言えばいいでしょうか。
挫折を味わった者の苦悩と悲哀とでも言えばいいのでしょうか、
人生に挫折を経験した人たちの手記が、
証しとして、実に多く取り上げられています。

現代の社会では、成功を夢見ることがもてはやされ、
成功することがモノサシであり、
また、そうあるべきだと考えられています。

その中で、挫折と苦しみの証しなど、
成功を夢見る者にとっては、何の教訓にもならず、
かかわりのないものであり、
せいぜいあわれみの視線を向けるにすぎないのです。

では、なぜキリスト教関係の雑誌には、
これほどまでに苦しみを味わった人たちの手記がと取り上げられているのでしょうか。
苦しみと挫折を味わった者だけがイエス・キリストに出会うことができるとでも言いたいのでしょうか。
それとも、失敗から学べとでも言っているのでしょうか。

そうではないようです。
十字架に手首足首を釘付けされたイエス・キリストを思いだしてください。
はずかしめられ、ののしられ、ムチ打たれ、
あげくに死にまで追いやられたイエス。
とてつもなく大きく重い責め苦を受けられた方です。

このイエス・キリストの十字架の出来事は、
すべての人間にたいする神の怒りの裁きが、
人間に代わり、
神のひとり子であるイエスの上に下されたことを示しています。

神の怒りの裁き、裁かれるのは、私たち人間なのです。
なぜなのでしょうか。
罪など犯してはいないと言う人にとっては、
認めることなどできないでしょう。

ことは、最初の人間であるアダムが、
創造主なる神の命令に背いて、
取って食べると死ぬといけないから取るなと、
言いつけられていた禁断の果実を、
善と悪とを知る果実を取って食べたため、
神の怒りを受け、楽園を追放されます。
さらに、アダムに続く人間には、
人間の生に死が入り、地は呪われてしまいます。
それ以後、人間は労苦して食を得なければならなくなったのです。

創造主なる神からくる愛であるところの永遠の命から見放されてしまった人間たち。
神に反抗し、神の愛にとどまることを拒み、
神の恵みを受けることさえできず、
地上をさ迷うことになった人間の姿・・・。
それが私たち人間の姿そのものなのです。

しかし神は、呪われた地と人間にたいして大いなる愛を、
究極のあわれみを示されました。

その出来事こそが、神の究極の決断と態度の決定という、
イエス・キリストの生と死と葬りと復活の出来事なのです。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事なのです。
神にとって、この世との和解は高価なものとなりました。
神に反抗している私たちとの和解の代償は高価なものとなったのです。

ただ神がその裁きを、私たちに求めず、
ご自身にたいしてなされたことによってのみ、
神はこの世界と、また被造物であるところの人間と、
神との和解をなしとげられたのです。

これこそが、人間の罪深さと、
神と人間との和解をあらわしている出来事です。

人生に大きな挫折を味わった人が知らなければならないのは、
自分のやり方や考え方が、
成功への筋道からかけ離れていたから失敗したのではなく、
もともと神の前で罪深い人間として、
当然それが、たどりつく結果・結論だということなのです。

イエス・キリストは、
そのような人間の罪深さの結果を身をもって受けられたのです。

つまり、神の前で裁かれたのです。

挫折を味わった人が、
”自分自身を知り、また罪深い本性を見い出したとき、”
自分の罪深さからくる苦しみやはずかしめを、
イエス・キリストみずからが代わって背負ってくださっている、
十字架の出来事に目を向けるときなのです。

キリストの十字架を見上げるとき、
自分も、その十字架に釘つけられていることを見い出すのです。
十字架につけられたキリストの姿において、
人は自分自身の本性を、罪深さを知るのです。

では、それは、挫折を味わった者だけなのでしょうか。

いいえ、そうではありません。

「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。
わたしたちはこう考えている。
ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、
すべての人が死んだのである。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章14節・口語訳聖書)

イエス・キリストの十字架の出来事は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事です。
イエス・キリストの身の上に起きたことは、
イエスにおいて、すべての人間の身に起きたことなのです。

そうでなければ、神によって裁かれた者として、
人は神の前で生きて行くことができなくなります。

ただ十字架につけられた者だけが、
神との平安のうちにあるのです。

挫折や失敗の手記が、あまりにも目立って、
キリスト教の雑誌に取り上げられるものですから、
とくにそうなのかと思わせますが、

人生において挫折を経験しないほうがいいのに決まっています。
現代の社会では、成功することが ”善 ”だと考えます。
成功が善であり失敗が悪だと・・・。
私たちがそのように考えるのは、
創造主なる神に背いて善悪を知る果実を食べた結果なのです。

神の前で、成功した者なのか、失敗した者であるかを問うているのではありません。
ただ神の裁きを心から受け入れることができるかどうかが問題なのです。
成功したのか失敗したのかが問題ではなく、
神の愛を受け取ることができるのかどうか・・・。
神が人間に求めているのは、神の前に立つことです。
すなわち、神の裁きを受け入れることだけなのです。

イエスの十字架の出来事は、
成功を夢み、
成功を目指して生きている人にたいする神の裁きでもあります。
成功を目指している人にたいしても十字架の前に立つことを求めているからです。

挫折を味わった人にとって、
成功することへの夢を断たれた人にとって、
敗北のしるしとしての十字架こそ、
自分の成功であり栄冠なのです。

そのように考えるのが、キリスト教の信仰なのです。
成功を目指し、負けることを拒む人にとっては、
自分は罪など犯してはいないと言う人にとっては、
受け入れがたいことなのかもしれません。

自分の可能性を活かすことが、
自分を信じて、今日を充実して生きることが、
人間としてもっとも素晴らしいことだと信じている人にとって、
イエス・キリストの十字架の出来事は、
受け入れることのできないものなのです。
だから挫折を味わった人を讃えることなどできません。


北白川 スー

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Wrote up on November 09, 2013.