罪を犯し続ければ



私たち人間は、
罪を犯し続ければ、
最悪の結果が待っていることを知らなければならない。

「なぜなら、わたしたちは皆、
キリストの裁きの座の前に立ち、
善であれ悪であれ、
めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、
報いを受けねばならないからです。」

(新約聖書・コリントの信徒への第二の手紙・5章10節・新共同訳聖書)

ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、
すべての人間は、
罪深い性質を負っていることを明らかにしています。
そうでなければ、
キリストは十字架に死ぬ必要などないのですから。
キリストは、すべての罪人のために死なれたのですから。

人間は自分の行為や行動が、
ルールや規則や法律に反していることを知っています。
何が良いことで、何が悪いことなのかを良く知っています。
しかし、それでもルールに反し続けているのです。
それとも、何をしているのか自分でわからないのでしょうか。

しかも、人間は、
罪を犯し続けることによる報いを知りません。
来るべき時に裁かれ報いを受けることを知らないのです。

必ずやってくる裁きのとき、
私たちには、罪にたいする裁きが待っています。
永遠に続く苦しみが、
地獄が待っていることを知らないのです。
それを明らかにしているのが聖書なのです。

聖書が語るキリストの福音は、
キリストの福音が解き明かされてこそ、
人間の本性的な、
生まれながらに負っている罪深さという性質が明らかになるのです。
福音は、
その罪深さには裁きが待っていることをも明らかにしています。

福音が明らかにされてこそ、
裁きが待っているのなら、
罪を犯すことをためらわせるのです。

罪にたいする報いを知れば、
罪を犯すことにたいするブレーキは働くのです。
そして福音には、
罪の赦しがあることを知るのです。

キリスト・イエスの十字架の出来事が解き明かされずに、
キリスト教の信仰が語られ描かれるとすれば、
それはキリスト教の本質とは異なった、
違ったものとして認識されてしまうことでしょう。

人は、福音が語られない所では、
語られないほどに福音から離れて行くのです。
福音とは、
罪にたいする裁きであり、
罪にたいする赦しなのです。
イエス・キリストは、私たちに代わって、
罪にたいする報いを受けられたのです。
十字架に命をささげることによって、
死をもって、
私たちの罪をあがなってくださったのです。
そのキリスト・イエスの贖いのわざを、
事実として認め、受け入れることによって、
肯定の意志を明らかにすることによって、
罪の赦しとなるのです。
神の裁きからの救いとなるのです。

しかし、受け入れたとしても、
ことさら罪を犯し続けるなら・・・・。

「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、
故意に罪を犯し続けるとすれば、
罪のためのいけにえは、
もはや残っていません。」

(新約聖書・ヘブル人への手紙・10章26節・新共同訳聖書)

キリスト教の信仰には、
死とか、裁きとか、地獄とか・・・。
何か暗いマイナスイメージが付きまとっているように見えますが、
聖書は、人間にとって、
それが本質的なことなのだと教え、知らしめているのです。
決して避けて通れるものではありません。


北白川 スー

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Wrote up on September 16, 2013.