なぜにイエスを必要としないのか
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キリスト教だから、
説明するまでもなく、分かりきっている・・・・。
当然のこととして、イエス・キリストが語られるはずなのだけれども。
語られてはいるのだけれど。
説明されてはいるのだけれど・・・。
でも、
牧師の話を聞いていても、なんだか感動しない・・・・・。
自分のこととして重ねられない・・・。
自分には関係のない、よそ事のように聞こえる・・・・。
日本のクリスチャンの正直な感想です。
日本のクリスチャンに問います。
なぜに、イエスを求めないのですか・・・。
なぜに、イエスを必要としないのですか・・・。
イエスは、救い主・キリストのはずですよ・・・・。
あなたと共に、生きて働いてくださっているはずですよ・・・。
あなたと共に・・・・・。
イエスを語らない教会もあることは事実です。
なぜに、イエス・キリストを語らないのですか。
キリスト教の教会の、
礼拝の中でされる説教において、
どうしてイエス・キリストが語らないのか不思議でならない。
父なる神は、
罪に満ちたこの世から、私たちを救い出そうとして、
ひとり子イエスを、この世界に送ってくださった・・・・。
救い主メシアとして・・・。
だから教会において、救い主イエスを解き明かすことは、
他の事はともかくとして、まずは第一のはずなのだが。
順序の最初に当たる事柄なのだが。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・1章14節・新改訳聖書)
礼拝とは何なのか・・・。
キリスト教の教会は、主はイエスである。
イエスの教会です。
復活の主です。
教会においてこそ、
イエス・キリストの人格にたいして礼拝されるべきです。
「イエスは言われた。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・11章25~26節・新共同訳聖書)
このように聖書の記述を引用してタイプしていますが、
心に触れる感じがしない、
感動を覚えない・・・・・と言われる。
主よ来てください・・・・。
北白川 スー
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Wrote up on January 17, 2019.