自分を映しだす鏡


 その人の前に、自分の姿を映し出す鏡を置いたとして、

 鏡に映し出される自分の姿をみて、

 そこに自分の弱さや愚かさを見て取ることのできる人は、

 きわめて少ない・・・・。

 ましてや心の奥底を読み取ることなど、なかなかどうして難しいものです。

 自分の弱さや愚かさを見てとれる人なら、

 自分自身を大切にすることもできるかもしれません。

 より良き自分への飛躍や変化のために、

 思いや態度や言葉や行動といったものを、

 セルフ・コントロールすることも可能でしょう。

 正直に自分と向き合うことができれば、

 自分の本当の姿を知ることもできるのです。

 しかし、誰にでも当てはまる方法ではないようです。

 そこに鏡があったとしても、多くの人は気づかずに見過ごしてしまうものです。

 身近に鏡が置かれていることすら見過ごしてしまいます。

 鏡に映し出される自分自身の姿を見て、

 心の中の何かを読み取ることなど、とても難しい話なのです。

 自分はどこへ行こうとしているのか・・・・。

 自分は何ものなのか・・・・・・・。


 この世界を造られた創造主なる神が、

 被造物である人間にたいする神の怒りというものを、

 神のひとり子イエス・キリストをして、

 私たち人間に代わって、

 神の怒りを、その身に受けられた出来事こそ、

 イエス・キリストが罪人として十字架にはりつけられ処刑された出来事・・・、

 イエス・キリストの十字架の出来事なのです。

 つまり、その出来事こそ、私たちの本当の姿を映し出す鏡なのです。

 どうでしょう、イエス・キリストの十字架の出来事が、

 私たちの心の奥底を映し出す鏡だとしたら・・・・・・・・。


 「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・新改訳聖書)


 鏡に映し出された自分の弱さや愚かさに気づき、

 それを見てとれる人なら、

 少なくとも、わずかでも方向転換することもできるでしょう。

 しか、イエス・キリストの十字架の出来事が、

 私たちに向けられた鏡であるとは、

 すなわち神の啓示であるとは、

 気づかずにいたとしたら・・・・・・。

 それが現実の私たちの姿なのです。

 だから、イエス・キリストの十字架の出来事と、

 神の怒りと裁きという事柄が、解き明かされないなら、

 正直に自分にむきあわさせることすらできないのです。

 イエス・キリストは、私たちすべての人の罪のために、

 その命をささげられたのですから。

 私たちに代わって、神の怒りをその身に受けられたのです。


北白川 スー

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Wrote up: 04 October 2009.