神と敵対する者の救い



クリスチャンのあるべき姿というものを、
いや、信仰の有るなしを問わず、
すべての人が持たなけれ次ならない姿勢というものを・・・。
心の持ち方、身体の向け方というものを、
聖書・バイブルは次のように指し示しています。

「実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)

イエス・キリストの十字架の出来事は、
イエスキリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を意味しています。

この出来事は、クリスチャンだけに適用されるものではありません。
すべての人が、その対象なのです。

この出来事によって、
今まで、神に身を背けていたものが、
神ご自身の介入のおかげで、
神に身を向けられるようになったのです。

キリストの贖罪とは、
人々が罪を悔い改め、神と和解する道を開かれたのです。

この日本では、信仰は、弱い者がするもののように思われています。
しかし、聖書・バイブルが語っているのは、
神の意志に敵対し、神と戦っていた者が、
その敵対を克服し、
神にたいして誠実に応ずる者となるように契約することをなのです。
つまり、神に聞き従うことを約束する・・・・。
神に向けて、いつも心を開いたままにする・・・・。

弱い者ではなく、実に虚勢を張っていた者が、
その態度を改めることを言っているのです。
弱みを隠すために、
強く勢いがあるかのように見せかけていたことを認める・・・・・。

なかなかできることではありませんが、
日本人ほどプライドが高く、
弱みを見せることを嫌う人間は珍しいかもしれません。

神に背を向けているとは、
多くの人は、そうだとは気づいていませんが。
それが日本の現実です。

神の言葉とは、
神とこの世界との和解の出来事であるところの、
イエス・キリストの十字架の出来事を指し示していることを知ってください。

私たちが、実に、聞き、また答えなければならない事柄なのです。

神と和解しなければならないということは、
神と敵対していることを意味します。

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、
神は天から怒りを現されます。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章18節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on May 18, 2017.