クリスチャンの結婚・異文化とのコミニケーション



クリスチャンとノンクリスチャンとの結婚というものは、
実に、アイデンティティーの違いを乗り越えての結婚と言えるのではないでしょうか。
または、その違いを認識しないままに・・・。
大きな障害とはならないと思って・・・・。
お互いの隔たりにはならないと思って・・・一緒になった・・・。

日曜日に、教会の礼拝に集っているクリスチャンの数といえば、
全人口の1パーセントにもとどきません。
カトリックやプロテスタント、”これもキリスト教”というものまで含めて1パーセントです。

自称クリスチャンや、教会から離れてしまったクリスチャンを数えれば、
全人口の6パーセントという統計数字もあります。

お隣りの韓国では30パーセントを越え、
13億の人口を抱える中国では、1億2千万の人たちがクリスチャンです。

この日本において、
数少ないクリスチャンと、そうでない人との結婚ともなれば、
それは、まるで価値観や習慣の異なる、外国人と結婚するようなものです。

住む世界の違う、使う言葉も生活習慣も違う者どうしの結婚ということになります。
目は青く髪は金髪、そして外国語を話し、靴を履いたまま家の中を歩く、
宗教文化も異なり、すべての習慣が異なる。
日曜日には、必ず教会へ神を礼拝しに行く敬虔なクリスチャン、
・・まったく価値観を異にする人を迎えるとすれば・・・。

日本の習慣にあこがれている人なら別として。
青い目をした女性に恋をした男性がいたならば、
その女性を獲得するには、
その文化を知らなければならないでしょうし、
言葉も生活習慣も知らなければならないでしょう。
そしてアイデンティテイーの違いを認識し、
それを乗り越えて行かなければならないでしょう。
むりやり日本の習慣に馴染ませることなど不可能なのです。

では、キリスト教文化の人を獲得するにはどうすればいいのでしょうか、
その根底に流れるものを知らなければならないし、
その文化を知らなければならないでしょう。
また馴染まなければならないでしょう。
時として一緒に教会へ行かなければならないでしょう。

私たちの日本の文化は、仏教や神道がその基いです。
キリスト教文化に比べれば、余りにもその違いは大きいのです。

また日本の社会はタテ構造だと言われています。
一家一族、血脈や血統、家柄を、地縁を重んじる、
それぞれの群れの結束によって成り立っている社会です。

クリスチャンは、教会を中心に、神を自分の主とし、
(この主とするということは、主人と下僕の関係をあらわします。)
主の愛に信頼し、その語りかけに従って歩んでいる者です。
教会を中心とした群れ構造と言っていいでしょう。

信仰ある者と無い者との違いは、
暮らしを支える意識の違いと言っていいでしょう。
その違いを乗り越えての結婚ということです。

聖書・バイブルは、次のように語っています。
「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、
あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
これらのことを話したのは、
わたしの喜びがあなたがたの内にあり、
あなたがたの喜びが満たされるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。
これがわたしの掟である。
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・15章10〜13節・新共同訳聖書)

キリスト教は、イエス・キリストと共に、
イエス・キリストに聞き従う者として、
結婚生活を送ることを求めています。
それは、私たちに対するイエスの愛が、
その結婚生活の支えであるからです。

イエス・キリストの十字架の出来事に現されたように、
私たちの罪をその身に負い、
私たちに代わって神の裁きをその身に受けてくださった・・・。

イエスの愛をもって互いに愛しあい、互いに愛しあうことによって、
永遠に神の前に夫婦共にいることができるのです。

互いに愚痴などこぼさないで、互いに愛しあうこと。
一方が相手のために、そうしなければ相手のためになれないような時ですら、
何かを捨てることも、どんな苦しみをもいとわないで、
互いにそのあるがままを受け入れる用意があること、
かりにも一方の欠点などを取り上げて非難したりしないことです。
互いに罪人であることを忘れないでください。

神があなたがたを、あるがままに受け入れてくださったことを思いおこさなければなりません。
それが十字架の出来事なのですから。

イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事は、
すべての人間は、創造主なる神にたいして大きな負い目を負っていることを、
それゆえに、私たちの本性が、弱く愚かなものであることを、
迷える存在だからこそ、
イエスを自分の主として、
イエスに聞き従っていかなければならない存在であることを明らかにしているのです。

キリスト教の教えは、
決して人間倫理を求めるものではありません。
私たちの良心に頼り期待するものではありません。
私たちは生まれながらに罪人なのですから。
だからこそ、イエスはその命を十字架にささげてくださったのです。

互いに弱く愚かな存在だと認識しあって初めて許しあうことができるのです。
互いに愛し、互いにゆるしあわなければ、
一緒に生活することなどできません。

「夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、
命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。
そうすれば、なたがたの祈りが妨げられることはありません。」

(新約聖書・ペテロの第一の手紙・3章7節・新共同訳聖書)

この言葉は日本の男性にとっては受け入れがたいものでしょう。
日本の男性は特に、自分を立てることに熱心であり、
へりくだって妻を立てようなどと考えないのが特徴ではないでしょうか。

決して自分の弱さを認めようとはしないのが日本の男性です。
自分も弱いのにもかかわらず強よがっているに過ぎないのです。
自分の弱さを認めてこそ妻の弱さを受け入れることができるのではないでしょうか。


北白川 スー

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Wrote up on February 09, 2016.