人を救うのは人だと疑わず信じている



神が人間を救うとキリスト教は言いますが・・・。

この日本での流れは、
自分を信じて生きることが希望に満ちた明日を約束すると。
人が人を救うとかたく信じています。
自分を信じて生きることが、
自分らしさを取り戻すことになると。
しかし、現実は、そう思えば思うほど苦しくなるのです。

くりかえし裏切られても信じようとします。
不確実な人間の愛が人間を救うものと信じているのです。

心の空しさは、
神によってしか満たされないとクリスチャンは言いますが。
しかし、それも、
思いあがった、上下逆転の発想かもしれません。
正しい者のために恵みはあるのだから、
神が満たしてくれるものだと。
ご利益信仰と言われるかもしれません。

何のために生きていますか・・・と問えば。
いや、誰のために生きていますか・・・と問いましょう。
”誰のために・・”
この問いの答えは、なかなかむずかしいものです。

言いかえれば、自分の存在理由と言えます。
もう一度言いかえますと、
”作品の存在理由は ”・・・・という問いかけです。

美術作品や音楽や文学の著作権を考えてみましょう。
作品は、作者に栄光を返すために作られるものです。

人間は神の作品だとしたら・・・・。
神に栄光を返すために私たちは生かされている。
それが、人間の存在理由なのです。

キリスト教の ”福音 ”についても、
つまり、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事は、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、
人間は神の作品だと言う前提に立たなければ説明できません。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、
世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」

 (新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)

人間は神の作品だという前提に立つのがキリスト教の信仰なのです。
人が人を救うとは考えません。
”救い ”は神の専権事項なのです。
救いは神から来るのです。

神の作品としての人間は、
創造主なる神の栄光をあらわすために生かされ生きているのです。
創造主なる神に栄光を返さないあらゆる思いや行為にたいしては、
神は、きびしい態度でのぞまれます。

私たち人間は神の作品ですが、
最初の人間であるアダムが神に背いたことにより、
楽園から追放され、
地上は呪われ、
人間の生に死が入り、
すべての人間は労苦して人生を歩まなければならなくなったのです。
この神への背きの罪にたいしては、
神の怒りの裁きが待っています。
世界の終わりのとき、
必ずやってくる終末のとき、
それは神の裁きのときなのです。
生きている人もかつて生きていた人も、
神の裁きの座に立たされます。

その神の怒りの裁きを、
すべての人間に代わって、
前もって受けてくださった出来事こそ、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。

この出来事を受け入れ承認することによって、
神の裁きから救われるのです。
自分のこととして・・・・。

「口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)

人が人を救うのではありません。
救ってくださるのは ”主なる神 ”ご自身なのです。
私たちに求められているのは、
神に聞き従うことだけなのです。
神に聞き従わなかったことによる結果は、
私たちは嫌というほど味わっているはずです。

「すべて主をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。」
 (旧約聖書・詩篇・128篇1節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on March 23, 2013.