人間の人生は死で終わるのではない
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 人は死を恐れるものですが、
 キリスト教の信仰は、
 人生の終焉を迎えたとき、
 生命がその終わりをむかえるとき、
 安心して死を迎えることができるのです。
 人間の人生は、
 死で終わるのではなく、続きがあります。
 神の裁きが待っているのです。
 天国か地獄かの審判が待っているのです・・・・。
 私たち人間は、その死を、
 十分に準備してむかえる必要があります。
 キリスト教が言うところの ”救い ”とは、
 神の審判から救われることを意味しているからです。
 イエス・キリストのみに信頼を置いたときから、
 つまりイエス・キリストに聞き従う信仰によって、
 神は私たちを神の前で正しい者とされるのです。
 神の前で正しい者は、天国への切符を手にしているわけです。
 それが救いであり信仰なのです。
 「 なぜなら、わたしたちは皆、
 キリストの裁きの座の前に立ち、
 善であれ悪であれ、
 めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、
 報いを受けねばならないからです。」
 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙5章10節・新共同訳聖書)
 創造主なる神によって創造された人間たち・・・。
 しかし、その創造主に背いたことにより、
 地上をさ迷い歩かなければならなくなった人間たち、
 その起源を最初の人間アダムのエデンの園の事件にさかのぼるわけですが、
 人類がひとしく負ってしまった背きの罪から救われるためには、
 神との和解しか方法はありません。
 その和解の出来事こそ、
 神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。
 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。
 この和解の出来事を信じることによって、
 救いへの道は開かれるのです。
 「 そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、
 一人の正しい行為によって、
 すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章18節・新共同訳聖書)
 人間の生と死という問題こそ、
 キリスト教の信仰を成り立たせる最も本質的なことがらなのです。
 「 口でイエスは主であると公に言い表し、
 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
 あなたは救われるからです。
 実に、人は心で信じて義とされ、
 口で公に言い表して救われるのです。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9〜10節・新共同訳聖書)
 死の恐怖からの解放・・・。
 死をむかえる者にとって希望となるもの・・・。
 それが、神がそのひとり子イエス・キリストの生と死と復活において備えてくださった、
 何ものにも代えがたい、すばらしい救いなのです。
北白川 スー
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Wrote up on 06 January 2012.