人は自分の感覚や経験に頼って生きていく



人間というものをノートにたとえれば、生まれたときはまっ白だったに違いない。
そのノートは、色々な経験を積み重ねていくことによって埋められていく。
忘れないように書きとめたものが、ノートの持ち主の今後を決めていくのだろう。
つまり、人は、自分の感覚や経験の積み重ねに頼って生きていることになる。
自分の感覚や経験に頼って生きて行くことは、とても大切なことのように見えますが、
ときとして、感覚にたより経験にたよったばかりに迷路に迷い込んだり、
大きな挫折を味わうこともあります。

そのノートを与えてくださった存在というものについて考えなければならないのですが、それはのちにして。

ここで、何かの困難な局面に立たされたとしましょう。
そのようなとき、脳裏によぎる二つのケースを考えてみましよう。
ひとつは、自分の感覚や経験というものが、実にあてにならないものだと思い知らされるとき、
自分というものの浅はかさを思い知らされるときとでも言えます。
考えが浅くて、信頼するには足らないと思い知らされたのです。
ひとつは、自分が傷つくことを恐れて、
自分の感覚や経験というものを見直そうとはしない、自己点検をしない場合です。
感覚や経験が自分を作り上げて来たと信じているのだから、あくまで自分を信じて生きて行こうとします。

キリスト教では、人間を考えるとき、人間の本性というものから物事を解きあかしていきます。
人間は、生まれながらに背負っている、神にたいする負い目があるのです。
この見方なくしてキリスト教の信仰はありえません。
先に与えられたノートと書きましたが、人間というものは、
実は、何ものも自分の力で自分のものにすることはできないのです。
私たちの人生というものは、神がそなえ用意してくださったものと信じて生きているのです。
それが信仰です。
初めに神の意志があり、私たちのすべてがその延長線の上にあるわけです。

神の意志の究極の出来事がイエス・キリストの十字架の出来事なのです。
イエス・キリストの十字架の出来事を語らずしてクリスチャンも教会も存在しません。
なによりも十字架の出来事が他を圧するものだからです。
イエス・キリストの十字架の出来事に立って物事を考えられない場合は、
何ものも解決の糸口は見いだせないと考えてもいいのです。

クリスチャンであっても、自分の感覚や経験を優先し、
それをたよりに生きて行こうと考え、イエス・キリストに聞き従わない方もおられます。
自分の思いや行動などを聖書・バイブルの言葉に照らして点検しようとはしないのです。
この世の考え方や方法、そして目に見えるものという、自分の感覚や経験にたよってばかりいて、
キリスト教として最も大切な、聖書を開くこと、
聖書から神の言葉に聞いて、
その言葉に従い、その言葉を支えにして生きて行こうという姿勢がとぼしいということです。

神の言葉に自分の経験や感覚を超えたものがあることに気づいていないから、
自分の感覚や経験に頼ってしまって道を誤ったことにも気づいていないのです。
自分の救いをイエス・キリストに求めたにもかかわらず、
イエス・キリストが十字架の上で死なれた出来事が、
自分にとって何を意味するのか知ろうとしないからです。

自分の救済ではなく、自分を立て自分を誇るためにイエスにつくことだってあります。
信仰があると言いながら、キリストの十字架に根ざしていない場合もあります。
イエスの受難は自分にとって何を意味しているのか・・・。
イエスは、あなたを囚われから解き放ち自由にするために来られたのに・・。

「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。
あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。
もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・4章7節・新改訳聖書)


北白川 スー

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