まず何よりも・クリスチャンが
まず何よりも、まず次のような認識に立たなければ、福音についても救いについても理解されることはないでしょう。
人には、生まれながらに負っている罪があること、
人間は、本性的に罪深い存在なのだということ。
生まれながらに負っている ” 罪 ” が、
・・それを「原罪・げんざい」と言います。・・
思いとなって、言葉となって、行為や行動となって、
神にたいして、人にたいして、自分にたいして罪を犯すのだということ。
しかし、この罪深さはが常に、はっきりとした形となって表にあらわれるものではないのです。
自分自身のありのままの姿は、見えないし、気づくことはない・・・。
それが罪深さの姿そのものなのです。
・・私は罪など犯してない・・と言う人もいますが、気づかずに犯している罪もあることを認識しなければなりません。
聖書・バイブルは、この人間の生まれながらに負っている罪とは、
いったい何なのかを明確に明らかにしていきます。
神のひとり子である、救い主・メシア・キリストが人としてこの世界に生まれたということは、
この世界が、神の目から見て、
堕落していることをあらわしているのです。
人間が、逃げることも救われることもできない状態でなければ、
救い主が来る必要などないのですから。
人間は、ひとりの例外もなく、罪深い存在なのです。
なぜ罪深い存在になったのか・・・・。
私たち人間は、この世界を造られた創造主なる神によって、
神の姿に似せて、素晴らしいものとして造られたのです。
しかし、人間の始祖であるアダムが、
その神に背いたため、神に反したため、
神に似せて造られたのですが、神になろうとしたのかもしれません。
あくまでもコピーであり神ではありません。
神に背き、神の意思に反したため、
神の怒りを受け、地に堕とされ・おとされ・・・。
それ以後、アダムに続く人類はことごとく罪深い性質を負って、
生まれてくることになったのです。
神にたいする罪深い姿勢が「原罪」そのものなのです。
エデンの園で、神から・・、
「・・善悪の知識の木からは取って食べてはならない、
それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ・・」
(旧約聖書・創世記・2章17節・新改訳聖書)
と神により厳しく禁じられていたのに、
取って食べたため、
そのときから、私たち人間には死が入ってきたのです。
さらに、地上において労苦して生きていかなければならなくなったのです。
主の怒りは、私たち人間が地上を労苦して生きて行かなければならなくなっただけではなく、
人生には死が入り、
さらに、やがて必ず来る、
神の審判の日には、つまり神の怒りの日には、
再びイエス・キリストがこの地に来られるとき、
生きている者も、かつて生きていた者、
ひとしく神の前で、神の審判を受けなければなりません。
つまり、天国か地獄かへの判定なのです。
やがて来る、この神の審判からの救いこそ、
キリスト教が言うところの ” 救い ” なのです。
「わたしの父に祝福された人たちよ、
さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。」
(新約聖書・マタイによる福音書・25章34節・口語訳聖書)
この世界が造られたときから、
天地創造の時から、
被造物であるところの人間たちのために用意されている、
神の国を受け継ぎなさい・・・・・。
これこそが、キリスト教のコンセプトなのです。
神のひとり子イエス・キリストの十字架の死による贖いわざ(あがないのわざ)こそ、
この世界を造られた神の怒りからの、
私たち人間にたいする赦しと救い(ゆるしとすくい)への道筋を明らかにされた出来事なのです。
キリスト教の信仰は、まず何よりもこのことが明らかにされなければ意味を失います。
そして、この事柄を信じることから始まるのです。
「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。
わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、
この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。
なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。
キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・10章1〜4節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 20 August 2010.