形式的な礼拝風景



日本のキリスト教の教会では、
保守的だといわれる教派であっても、
リベラルだと自認している教会であっても、
式次第に従った礼拝風景が展開されている。
福音派の教会であってもペンテコステの教会であっても同じだ、
礼拝風景は整った式次第で進行されている。
そこにはダイナミズムは無い・・・。
言い過ぎかもしれないが・・・。

形式的な礼拝には、
イエス・キリストを通じて人間に働きかける、
聖霊・ホーリースピリッツの働きはあるだろうか。

「 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。
だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。
もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」

(新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・5章1~2節・新共同訳聖書)

キリスト者は、
イエス・キリストの十字架の出来事により自由を手にしています。
バプテスマにより、生まれ変わった身体を得ています。

「 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、
わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章46節・新共同訳聖書)

「・・・・・キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、
ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」

(新約聖書・へブル人への手紙・9章26節・新改訳聖書)

礼拝風景が律法的だとは言いませんが、
礼拝に御霊に導かれた自由と言うものが存在しているでしょうか。

「 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。」
(新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・5章18節・新共同訳聖書)

聖書・バイブルは、明確に言っている。

・・あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にある・・・と。


北白川 スー

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Wrote up on February 06, 2019.