信仰の日常性


 信仰というものは、人間の生き方に大きく関わるものです。

 それだけに、私たちの日々の暮らしに、

 密接に、また熱情的に、あるいは素朴に、

 または習慣的に結びつきやすいものなのです。

 そうだからこそ、信仰しているその信仰の主体にたいして、

 その信仰を成り立たせているものへの、

 正しく道理にかなった理解や認識に欠けることも起きてきます。

 信じる者は、ときには熱心に、

 ときには自分だけの利益や安定や平安などを求めるあまり、

 他人の立場を考えない姿勢すら見せます。

 当の本人は、そのことにすら気づいてはいない場合もあります。

 よくよく観察すれば、

 多くの場合、自分だけが特に持っている価値観にすら気づかずにいます。

 ですから、自分の考え方ややり方が正しいと思えば思うほど、

 それに、こだわり続けます。

 こだわり続ければ続けるほど、客観性すら失ってしまいます。

 自分自身を、自分の外から冷静に観察することなどできなくなるのです。

 宗教とか信仰とかは、神を信じることであるはずなのですが・・・。

 キリスト教であっても例外ではありません。

 この日本では一般的に、キリスト教をどのように見ているのでしょうか。

 現代社会の病理の中で傷ついてしまった人たちの受け皿としての役割であったり、

 心の病や、身体に障害を抱えている人たちのケアをする役目であったり、

 社会において、人と人との人間関係に傷ついてしまった人たちの受け皿であったり、

 人間のさまざまな必要に答えるところとしての機能であったり、

 人生において、傷つき苦しみを味わっている人は、

 その人の生き方にたいする肯定的な言葉や、

 接し方を求めるものです。

 はげましとなぐさめの言葉を求めるものです。

 それらの働きが、

 キリスト教の教会の大切な働きであったとしても、

 すべてではありません。

 教会は、社会の中で社会的な役目を与えられた施設ではありません。

 日本の社会には、キリスト教の教会にたいする誤った理解が根強く存在しているようです。

 キリスト教の教会は、

 この世界を造られた神をあがめるところであり、

 ” 神の啓示 ”が語られ、解き明かされるところなのです。

 ”ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事 ”が、

 語られ解き明かされるところなのです。

 この世界を造られた神の啓示が語られ解き明かされてこそ、

 私たち人間は、自分を縛っていた自分自身の価値観から自由になることができるのです。

 私たち被造物としての人間は、

 神の啓示を聞き、啓示の証しにもとづいて、

 啓示を受け入れ、ただ承認することだけができるのです。

 神の啓示が事実であることを認めることを、

 口で言い表すことだけなのです。

 それがキリスト教の信仰の真髄・・・・、

 キリスト教の信仰でないと味わえないものなのです。


 「福音には、神の義が啓示されていますが、

 それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。

 「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章17節・新共同訳聖書)


 神の啓示が、啓示の証しが教会を作り上げ、

 啓示の証しによって、

 啓示みずからの権威と、確実性とを持って、

 神の啓示は、私たちのところに届くのです。

 そうだからこそ信仰が生まれるのです。

 神の啓示を証しせず、社会のひとつの施設になるのなら、

 それは、キリストの教会ではありません。

 それが熱心さのために、美しく見えたとしても、

 ただ人間の、自分自身の行いと苦しみとが残るものになるだけなのです。

 ここで付け加えるとすれば、

 聖書の世界は、グローバル・スタンダード、世界標準なのです。

 キリスト教の信仰であっても同じです。

 そこに、日本的な信仰というものを持ち込めば、

 それは、世界標準から外れたものになるのです。


北白川 スー

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Wrote up: 12 August 2010.