日本人の心を考えるとき



最近の、見通しの立たない混乱した日本の状況を考えますと。

わたしたち日本人の心は・・・。
何がその人の心を満たしているのだろうかと、
何よって満たしたいと願っているのだろうかと思わされます。

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。
一方を憎んで他方を愛するか、
一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。
あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

(新約聖書・マタイによる福音書・6章24節・新共同訳聖書)

キリストの教会は、人間の心の飢えかわきを、少しでも満たしたいと願っています。

ただし、今あるものを認め、その延長線上のものを言っているのではありません。
まったく新しい道筋を示したうえでの話しです。
安易な励ましを与えるものではありません。

日本という共同社会が、その事実すらも、その存在すらも知らず、
それを問題にしようともしないものがあります。

それがキリストの福音です。
すなわち、イエス・キリストの十字架の出来事、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。

今の自分が大切で、イエス・キリストの十字架の出来事など、
どこかよそのことにすぎず、
自分には関係のないこととして無視するなら。

しかし、2000年もの長きにわたって、
キリストの教会がイエス・キリストの十字架の出来事を語り続けているのは、
” その人が気付いていなくても ”、
十字架の言葉が必要とされる人がいるから、
イエス・キリストの十字架の出来事が語り続けられているのです。

教会でキリストの十字架の出来事が説かれ解き明かされるなら、
その言葉を聞いた人が、
キリストの十字架の言葉を聞いたのなら、
どのような状況の中に置かれていても、
どのような暮らしの中にあっても、
その言葉を発せられた方である”主イエス ”への感謝と賛美とを、
自らの唇によって言いあらわさなければ、
自分を納得させることができないほどに、
キリストが自分の人生において、
欠かすわけにはいかない存在として受け入れ、
その位置を占めるように変えられるのです。
まさしくアメージングな出来事なのです。

それが、キリストへの信仰・キリストへの信頼というものなのです。

しかし多くの人は、自分の心が飢えているにもかかわらず、
自分には、まだまだ未知の自分があることに気付いていないのです。
閉ざされた心の扉を開ける作業もせず、
視野を広げることも、耳を傾けることもせず、
約束されている希望の扉を開くことすらしないのです。

決して、”自分を信じてあきらめないで”、とは言いません。
あまりにも安っぽい言葉があふれている日本の社会です。
あまりにも安っぽいはげましの言葉に満ちている社会です。
そして、軽はずみな脅かしの言葉に引きつけられる社会なのです。

だからこそ、キリストの教会では、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の出来事を、
キリスト・イエスの十字架の上での死、
葬り、そして三日目のよみがえりをメッセージしているのです。

それは、なにものにも代えがたい、
すべてのものの上位に位置する至上の出来事であり言葉なのです。

今の日本の状況は、多くの人は、その言葉を拒んでいるわけではありません。
ただ知らないだけなのです。
ただ、まだまだキリストの教会の声が小さく、
その人たちにキリストの福音が届いていないだけなのです。
教会の声の小さいところでは、

「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、
なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、
もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」

(新約聖書・ガラテヤの信徒への手紙・4章9節・新共同訳聖書)

と語られるように、
私たちが生きて行くうえで、
欠くことのできない大切なものではなく、
安っぽく軽はずみな ”もろもろの霊 ”の奴隷として、
その支配の下にとらわれてしまうのです。


北白川 スー

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Wrote up on September 02, 2016.