福音から日本人を遠ざけているもの



自分はクリスチャンだと自己申告している、
ギャラップの調査での6パーセントという数字があったとしても。
現在にいたるまでキリスト教の教会の日曜日の礼拝に集まる人たちの数と言えば、
日本は長年にわたって1パーセントの枠から抜け出ることはありません。
その理由を、
日本人を礼拝に集まらせることを妨げている理由を、
日本人の意識や生活様式を築き上げてきたさまざまな局面からあばきだそうとするなら。
それは、たいへん困難な作業になるかもしれないのです。
何の問題もなく当然のことのようにして、
いかに日本人がそれを通して人生を築いてきたかを、
日本人の習慣や判断や様式を通して見なければならないからです。
日本人は教会など必要とはしないのですから。

1パーセントの理由を1パーセントの中に見出そうとしなければならないとすれば、
それは合理的な判断ではないかもしれません。
キリストの福音が問題にするのは、
イエス・キリストの十字架の出来事が対応としようとしているのは。
99パーセントの人たちだからです。

日本人の意識や社会や生活様式が必要とする教会が存在していても、
キリストが求める、
神が求める人間を必要としている教会は、
どれだけこの日本に存在しているでしょうか。

福音を日本人から遠ざけている理由を、
答えを正確に導きだすためには、
日本人が日本人の人生を眺める焦点や遠近法にどのような影響を与えているのかを、
日本人の感覚や感情ではなく、
聖書・バイブルというレンズを通して見なければならないからです。
人間の人生を、まったく異なったレンズで見ている聖書・バイブルは、
彼ら日本人にとって、いささかも必要としないものだからです。
キリスト教の書店には、
日本人の意識や生活様式の言葉を用いた多くのキリスト教的な解説書やハウツウ本はあります。
しかし、聖書・バイブルからはるかに遠い日本人を、
聖書・バイブルに近づけるには、
聖書・バイブルの言葉を用いて解き明かさなければ、
今まで見たことのない、
まったく新しいものを見るかのように、
おどろきをもってキリストの福音を迎えることはないでしょう。

静かにしておこうと思うものを、
あえて、ことさら人目に触れるようにしなければならないからです。
あえて隠しているものを、あえて見逃しているものを、
遠慮なく人前にさらけ出す作業をしなければならないからです。

「なぜなら、律法を行なうことによっては、
だれひとり神の前に義と認められないからです。
律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
しかし、今は、律法とは別に、
しかも律法と預言者によってあかしされて、
神の義が示されました。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章20〜21節・新改訳聖書)

ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事こそ、
キリストの福音であるわけですが、
その出来事の内容と意味とを、
どれだけの教会がくりかえし解き明かしているかと問えば、
教会の外へ向けて解き明かしているかと問えば、
おのずから、その答えこそ1パーセントなのです。


北白川 スー

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Wrote up on February 16, 2013.