何からの救いなのか


 教会の説教・メッセージにおいて、語られていそうで語られていない事柄・・。

 それが「何からの救いなのか」ということではないだろうか。

 もちろん、そこには「何による救いなのか」というキリスト教の根本的な事柄が語られていなければならないし、

 つまり、イエス・キリストの十字架の死による”あがない ”という事柄であり、

 さらには、「何のための救いなのか」という事柄が明らかにされていなければ、

 希望を抱いて、目標のある人生を信仰生活を日々歩んでいけなくなります。

 何からの救いなのかを理解しようとすれば、

 今の状態というものを、

 私たち”人間の本性 ”とでも言うべきものを考えなければ、

 何からの救い・・何から救われた・・ということは分かりません。


 日本の多くのクリスチャンが ”救いの確信がない”とよく感想しています。

 では、なぜイエスは十字架の上で死ななければならなかったのでしょうか・・・・。

 教会のメッセージにおいて、イエス・キリストの十字架の出来事が語られても、

 そして聞いても、

 それが未消化のままになっていれば・・・、

 だから、くりかえしくりかえし語られ、その原因と結果というものの、

 確認作業がつねに行われていたなら・・・・、

 イエス・キリストの十字架の出来事による救いというものが、

 日々の暮らしの、また信仰生活のいしずえになるはずなのです。

 それが、しっかりとしたスタート地点に立つことの大切さではないでしょうか。


 パウロは言っています。

 「 次のように書いてあるとおりです。

 正しい者はいない。一人もいない。

 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。

 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。

 善を行う者はいない。ただの一人もいない。」

  (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙3章10〜12節・新共同訳)


 神の前で正しい者は、この世に1人もいないと言っているのです。

 神の前では、例外なくすべての人は罪深い存在だと・・・。 


 いや、人間は捨てたものではない・・・・

 良い事だってやっている・・、

 善を行う人が、ひとりもいないなんて・・・そんな・・・。

 きっと、奉仕や慈善や孝行など人の模範となるような良き行為は、やっていると言われるでしょうね。

 正直な感想ではありますが、

 聖書が言うところの善の基準と、私たちが考える善の基準とは、

 大きなへだたりが横たわっているのです。

 救いの確信がないと言われる方は、自分に正直に生きようとしている方かもしれません。

 ”自分は正しい”と思えば、何から救われるのかという立場はその意味を失ってしまいます。

 ”正しい者 ”に救いは意味を持ちません。

 救われる必要がないからです。

 堕落していてこそ、心を失っていてこそ、罪深いからこそ、

 救いというものが意味を持つのです。

 ”あなたは罪人だ”と言われれば、だれしも良い気持ちはしないでしょう。

 しかし、心の奥底にあるものが、

 思いや言葉や行為となって、それが混乱や苦しみや心の傷みになってあらわれてくるとしたら・・・。


 私たちは、例外なく、神の前では、すべて罪人です・・・。

 だから神によって救われなければならないのです。

 ・・・ひとりの人がすべての人のために死んだ以上・・・・。

 イエス・キリストが、すべての人のために死んだから・・・・、

 救いへの道は開かれたのです。

 何のために・・・・・。

 だからこそ、くりかえしくりかえしイエス・キリストの十字架の出来事の詳細が、

 教会の講壇からメッセージされなければならないのです。


北白川 スー

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Wrote up: 17 April 2008.