神の恵みとは
暗くてみにくいニュースに満ち満ちた日常・・・。
人の死や、事件や、災害や、戦争や、スキャンダルや・・・。
それが人間の本当の姿をあらわしているとは語られず・・・。
自分だけは関係ない、自分はだいじょうぶ・・・と。
さて一方・・・、
クリスチャンは、よく恵まれたとか恵まれていると言う。
その恵みとはいったい何でしょうか。
健康ですか、経済的な豊かさですか、人間関係の和ですか。
自分らしさを保てたからですか。
自分の必要が満たされたからですか。
そうであるなら、
その信仰は、御利益信仰の他のなにものでもありません。
聖書・バイブルが語る“ 神の恵み ”とは、
必要が満たされ、不平や不満を感じない状態のことではありません。
神の恵みとは、「復活・よみがえりと永遠の命」のことなのです。
神のひとり子であるイエス・キリストが十字架にかけられ罪人として処刑された出来事は、
私たちが受けるべき刑罰・罪の代価を、
イエスは自らの命をささげることによって、
私たちに代わって担われたという出来事なのです。
私たち人間は、たえず新しい罪を犯し続けています。
つまり、生まれながらに罪深い性質を負っているのです。
それゆえに、やがて来る時に、
創造主なる神によって裁かれる・さばかれる存在なのです。
それは、ほろび・亡びの中を歩んでいることをあらわしているのです。
現実の私たち人間の姿は、明るい未来へではなく、
亡びへと、ひた走っているのです。
ですから、神の裁きから救われることが、
亡びではなく永遠の命へ移されることが、
神の恵みそのものなのです。
神が人として、“ 神のひとり子イエスが人として ”メシア・救世主としてこの世界に来られたということは、
神の目から見て、この世界が堕落していることをあらわしているのです。
神の作品である人間は、
本来なら、
作者である創造主に栄光を返さなければならない存在なのですが、
それも作品である限り永遠に・・・・。
現実は、それとは逆なのです。
それには作者の審判・裁きが待ち受けています。
出来の悪い作品はこわされるのです。
死が待ち受けているのです。
しかし、作品にたいする作者の愛がある限り・・・・・。
作品を思う意思はクリエーターとして当然なのです。
私たちの人間としての存在が、
創造主なる神が創造された人間という存在が、
神のひとり子イエス・キリストが、
私たち人間と同じ人となられたことにより、
神の作品としての人間と同じ作品になられたことにより、
そして、私たちに代わって裁きを受けられたことにより、
イエス・キリストへの信仰のゆえに、
神の人間への裁きと、亡び・さばきとほろび・にたいして、
裁きの中にあっても、亡びの中にあっても、
イエス・キリストへの信仰によって、
神から見て正しい者として受け入れられるのです。
亡びではなく、永遠の命へ移される希望に。
私たちの人間としての存在が、
神から見て正しい者として受け入れられること・・・、
その現実的な、生きた状態としてのあらわれが、
イエス・キリストの死人からの復活・よみがえりなのです。
その出来事こそ、作者が作品にたいしてなされた約束であり、
その約束の完成なのです。
それを信じること、
つまり、作者に背いていた作品が作者に立ち帰ること、
それが“ 悔い改め ”ということです。
作者への態度を悔い改める、それが信仰なのです。
創造主へ栄光を返すこと、それが信仰なのです。
私たち人間のために、
人となられたイエス・キリストに信頼すること、
私たち人間が神の作品であることを、再び確認すること、
すなわち信仰によって、
私たち人間と同じ人間となられたイエス・キリストに信頼することによって、
神の作品としての立場を地位を、
再び得られるという・・・・。
つまり、イエス・キリストの復活・よみがえりと、
永遠の命・・・以外のなにものをも見ないという態度こそ、
信仰であり、神の恵みそのものなのです。
とても難しい説明になるのですが、
とても理解し難い事柄なのですが、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の内容と意味とが、
解き明かされなければ、
私たちはとうてい理解することなどできないし、
受け入れることもできないのです。
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、
神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、
すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、
地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、
父なる神がほめたたえられるためです。」
(新約聖書・ピリピの信徒への手紙・2章7〜11節・新改訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 25 January 2011.