罪というテーマ



 キリスト教の信仰において、

 「 罪 」というテーマは、決して外すことのできない関係にあります。

 いや、あるはずなのです。

 この罪とは、

 生まれながらに負っている罪のことです。

 それを”原罪 ・ゲンザイ ”と言います。

 人は生まれたときから罪深い存在であるということです。

 しかし、こと日本の教会では、どういうわけか、

 取り上げられることが極めて少ないテーマなのです。

 私たちは、私たちがときどき罪を犯すから罪深いのではなく、

 常に罪深いから、ときどき罪を犯すのです。

 ひとりの人がすべて人のために死んだという出来事は、

 つまり、イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、

 すべての人は、神の前では罪人だということの証しなのです。

 人の前でも同じです。

 すべての人は罪人だからです。

 私は罪など犯していないと言う人があるとしたら、

 それは、まさしく、自分を偽っていることになります。

 または、イエス・キリストの十字架の出来事を聞かなかった人なのです。

 すべての人間が罪深い存在であるということは、

 私たち人間の生の背景には ”原罪 ”があるということを意味しているからです。

 神のひとり子イエス・キリストが、

 救い主・メシア・キリストとして、

 この世界に生まれ来たということは、

 この世界が、神の目から見て堕落していることをあらわしているのです。

 逃げることも救われることもできない状態でなければ、

 救い主など必要とはしないのですから。

 さて、そうなると・・・、

 日本の教会はどういうことになるのでしょうか。

 日本の教会では、

 社会的弱者の救済(神の裁きからの救いではなく)、

 心に病を負った人たちや、

 現代社会の病理に疲れ傷ついた人たちの救済という方向性を持ち続けるなら、

 まことの福音は、

 日本のすべての人たちには伝わらないことになります。

 社会に評価されず、また受け入れられず、

 自分の居場所がない人が、

 それを教会に求めるなら、

 自分の生き方にたいする肯定的な励ましの言葉や対応を教会に求めるのなら、

 言いかえれば、自分の義を教会によって得ようとするなら、

 それは、すべての人を対象とした、

 キリストの福音から外れた遠いものとなります。

 キリストの福音とは、

 キリストが罪人を見出し、

 罪の中から救い出すことを意味しています。

 神の怒りの裁きが待ち受けている人にたいして、

 その神の怒りの裁きから救いだすために・・・・・。

 キリストは、この世界に人として来られたのですから。

 それが、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。

 だれひとりの例外もなく、

 神の前ではすべての人は罪人です。

 またそれが人間の歴史の重苦しい積み重ねとなってあらわれているのです。

 天地万物を創造された創造主なる神は、

 神に似せて、神にかたどって人間を造られれました。

 最初の人間は、神を知り、神をあがめ、神と共にあり、神に従う存在だったのです。

 しかし、最初の人間アダムが、神の命令に背いたため、

 楽園から追放され、生に死が入り、

 地上を労苦してさ迷い歩かなければならなくなったのです。

 エデンの園の中央には二本の木が立っていました。

 「いのちの木」と、「善悪を知る木」です。

 神は、園のすべての木から取って食べてもよいと言われました。

 ただし、善悪を知る木からは取って食べてはならない。

 それを取って食べると必ず死ぬから、

 決して、取って食べてはいけないと命じられていました。

 しかし、最初の人間アダムが、

 神に背いて、善悪を知る木から取って食べたのです。

 アダムが神に背いて、禁断の果実を取って食べたため、

 つまり、神にたいして罪を犯したため、

 楽園から追放され、

 それに続く人類の生には死が入り、

 ことごとく罪の性質を負って生まれてくることになったのです。

 その罪の性質が、思いとなり、言葉となり、行為や行動となって、

 自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。

 私たちが、常に、悩み苦しみ傷つくのは、

 すべて神にたいする罪が原因なのです。

 神への罪には、当然として裁きが待っています。

 必ずやってくる世界の終わりのとき、

 生きている人も、かつて生きていた人も、

 神の裁きの座に立たされることになります。

 その神の裁きからの救いこそ、

 キリスト教の信仰が言うところの ”救い ”なのです。

 救われるには、どうすればいいのでしょうか。

 つまり、神への罪を赦されるためには、

 どのような救いがを必要とするのでしょうか。

 罪人を救うには、

 罪を認めない者が罪人の身代わりとなって、

 罪の代価を支払うより他に方法はありません。

 その出来事こそ、

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。

 父なる神は、神のひとり子イエス・キリストを地上に生まれ来させ、

 罪のないイエスを罪人とし、十字架にかけ、

 神の怒りをイエスの上に下し、

 わたしたちの罪の代価を、

 イエスの命をもって贖って(あがなって)くださったのです。

 このイエス・キリストの十字架の出来事を信じ、

 自分が、罪人としてかけられるはずの、

 十字架を仰ぎ見、

 イエス・キリストを「あがない主」と告白し信ずる者は、

 すべての罪は赦され、

 神と和解し、

 再び神の子として受け入れられるのです。


 「 口でイエスは主であると公に言い表し、

 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、

 あなたは救われるからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)


 イエス・キリストの十字架の出来事を告白し、

 言葉で言い表し、心で信ずることは、

 つまり、その言葉、その態度、その行為によって、

 創造主なる神に栄光を帰すことになるのです。

 イエスはなぜ復活されたのでしょうか。

 復活がなければ、

 クリスチャンの信仰はむなしいものとなります。

 私たちの古い生をイエスの十字架とともに死にわたし、

 キリストと共に復活することによってこそ、

 新しい命を手にすることができるのですから。

 新しい生き方に変えられるのです。

 古い自分は過ぎ去り、新しい人間として、

 永遠の命へと移され、

 創造主なる神に栄光を帰す人生がはじまるのです。

 それが人間を創造された理由なのですから。

 当然のこととして、最後の審判のとき、

 地獄ではなく、天国へ行くことに判定されます。

 あくまで自分の生き方にこだわり、

 自分の義を求めるならば、

 それは神への道ではありません。


北白川 スー

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Wrote up on 16 August, 2012.