救い主、イエス・キリスト


 救い主・神のひとり子イエス・キリストがこの世界に生まれ来たということは、

 この世界は、神の目から見て堕落していることをあらわしているわけです。

 そうでなければ、救い主など必要とはしないのですから。

 自分は罪など犯していないと思っている人には、

 イエス・キリストは救い主とはなりません。

 現実の人間の姿を見れば・・・・、

 まさしく、問題の多い欠陥だらけの存在なのです。

 まあそれでも人生は何とかなるものです。

 しかし、聖書・バイブルは、


 「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、

 善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、

 それぞれ報いを受けねばならないからである。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・口語訳聖書)


 と、イエス・キリストが再びこの世界に来られたとき、

 生きている者も、かつて生きていた者も、

 この世界を造られた創造主なる神の審判が、さばきが待っていると語っています。

 キリスト教が言う救いとは、

 現実的なさまざまな問題からの救いという意味も含んではいますが、

 経済的な困難や健康のことであったり、人間関係の不和などと言ったものからの救いという意味も含まれてはいますが、

 やがて来る神の怒りの日、神のさばきからの救いというテーマが、

 もっともその位置を占めているのです。


 「わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、

 また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、

 生けるまことの神に仕えるようになり、

 そして、死人の中からよみがえった神の御子、

 すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、

 天から下ってこられるのを待つようになったかを、

 彼ら自身が言いひろめているのである。」

 (新約聖書・テサロニケの信徒への第1の手紙・1章9〜10節・口語訳聖書)


 イエス・キリストこそ、

 やがて来る、神の怒りの裁きから、

 私たちを救ってくださるお方なのです。

 キリスト教の信仰とは、またクリスチャンたちは、

 イエス・キリストの再臨を・・・。

 イエス・キリストが再びこの世界に来られる日を、

 心から待ち望んでいるのです。

 その日は、救われている者にとってはもっとも素晴らしい日となることでしょう。

 しかし、救われていない人にとっては、

 その日は、人が経験しうる災難をはるかに上回る、

 最悪の事態になるはずなのです。

 天国か地獄か・・・・。

 その裁きをイエス・キリストが、すでに、私たちの身代わりとなって受けてくださっているとしたら・・・・。


 「・・・・・・、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、

 世の終りに、一度だけ現れたのである。」

 (新約聖書・ヘブル人への手紙・9章26節・口語訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 05 May 2010.