理解されたいと願うよりも、愛されていることを知れ



家族であっても、地域社会であっても、職場であっても。
私たちは何ごとにおいても、理解されることを求めるものです。
親が子に対しても、子が親に対しても、夫婦の間であっても。
彼女や彼や同僚や、
社会や人間関係や会社などに対して求めるものは、自分が理解されることなのです。
自分の考えや好みや願いや欲望など・・・・を。
自分が望んでいることを理解して欲しいのです。

それも、それによって自分の責任とか義務というようなものを、
自分が果たさなければならなくなるようなものを相手が求めないように・・・。
まるで、一方的な身勝手で自己中心的な権利の要求なのです・・・。

どのような場であっても、
自分に対して求められているものがあります。
自分が果たさなければならない内容のものはあります。
そうだとは気づかない人もいます。

理解されたいという願いには、
拒絶が含まれていることを知らなければならないのです。
しかし、それに気づかないことも多々あります。

自分を理解してくれるものを選び、そして結びつく、
理解してくれないものに対しては、どうぞお下がりくださいと・・・。

日本の、キリストの教会に救いを求めてやってくる人たちの多くは、
まるで、「この私を理解してください」と言わんばかりに、
そして自分の抱える問題の当の相手に対しても、
この自分を理解してくれるようにと求めます。

キリストにさえ、この私を理解してくださいと祈るのです。
それが現実かもしれません。

新約聖書のヨハネによる福音書の言葉は次のように語っています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)

この記述こそ、キリストの福音というものは、まさしく神が、
私たちを愛してくださっていることをあらわされた出来事を物語っているのです。

理解されたいと願っている者にとって、
愛されているという事実を知るには、また理解するには、
そこには、高く大きなハードルが待ちかまえています。

当たり前に自分のものだと思っているものを見直すことができなければ、
自分の当然の権利だと思っているものや、
自分が立っているものや、立とうとしているもの、
すべての「私のもの」を手放し、捨て去らなければならないからです。

理解されたいという思いは、
自分の欲求を相手のものにしなければ、
相手が共有してくれなければ、
理解されたとは言えないわけです。

それは、相手を所有することを意味します。

神の愛を知るということは、
その愛の中に自分を置き、その愛と溶けあい、
自分をなくすところまで行かなければ分かりません。
つまり服従そのものなのです。

それは、素直に聞き従うことを意味します。
理解されたいと願っている者にとって、
愛されていることを知るには、
すでに理解されているという事実を知ってこそ、
初めて愛を知るのです。

イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事こそ、
神が、私たちを愛し理解された故の出来事なのです。

理解されたいと願っている者には、
イエス・キリストが十字架に釘づけになっている姿さえ眼中にないのかもしれません。

私たちは罪を犯し続けていることを、
その罪は埋め合わせしなければならないことを、
罪には、裁きが、罰が待っていることを、
私たちは知りません。

神に愛されていることを知って初めて”ハレルヤ ”と、
「神を誉めたたえよ」と叫ぶことができるのです。
神は、私たちのすべての罪をゆるしてくださいます。


北白川 スー

関連記事・「キリストへのプロローグ」

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Wrote up on April 02, 2016.