何からの救いなのか・・究極的な救いとは
聖書・バイブルが語る救いとは。
人類が、すべての人間が経験することのできる究極的な救いとは何かと言えば、
やがて来る、この世界を造られた、私たち人間をも造られた創造主としての神の怒りの日・・・・、
やがて来る裁きと怒りの日・・・・。
すなわち、最後の審判の日からの救いなのです。
聖書は、人類にたいする神の怒りと裁きと、確かな約束とを物語っています・・・・・。
人が、神の怒りから救われたいと思わないかぎり、救いへの道筋も明らかにはならないのです。
「 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ(前に立ち)、
善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」
(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・口語訳聖書)
この日本をキリスト教の後進国にしている理由は、
神の裁きの日があるなどとは、
裁きの日が必ず来るなどとは信じていないからではないでしょうか。
いや、知らされていないとしたら、信じることなどできません。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事は、
イエス・キリストが十字架に手首足首をクギ付けにされ、罪人として処刑された出来事は、
すべての人間の罪をその身に負い処刑されたという出来事は、
つまり、イエス・キリストは裁かれたのです。
私たちすべての人間に代わって・・・・・・・・・。
それは、すべての人が死んだことをあらわしています。
すべての人が裁かれ罰せられたことをあらわしています。
その意味では、私たちには救いはありません。
しかし、そのイエス・キリストを信じることによって・・・・・・。
私のために、私に代わってキリストは裁かれたと信じるなら・・・。
そして、三日の後に死人のうちから復活されたイエス・キリストを信じるのなら。
つまり、自分は、裁かれ、罰せられ、
死んだ者には罪はありません。
罪は無くなったのです。
それどころか、
キリストへの信仰によって、キリストへの信頼によって。
新しい生を手に入れることができるのです。
「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、
自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、
あなたは救われる。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・口語訳聖書)
私の罪のためにキリストは死んでくだったと信じるなら・・・、
また、そのキリストにあらん限りの信頼をよせるなら・・・・。
すでに、罪は赦されているのです。
創造主は絶対的な権威を持っています。
被造物を生かすも壊すも作者の意志によるのですから。
その作品が作者の意図に反したとしたら、背いたとしたら・・・・。
作品は壊されるのが当然なのです。
社会から仲間はずれにされたと苦しみ、居場所のないことに苦しみ、
教会なら、自分の生き方にたいして肯定的な励ましを得ることができると考えて・・・・、
また、そうあるべきだと思って・・・・。
それは、キリストを必要とする、しないというレベルの問題ではないのです。
しかし、キリストは、
人間にたいしてキリストの前に立つことを求めるのです。
キリストは、人間の自らを正しいとする企てや意志にたいして、
きびしい態度で接しられます。
悔い改めるとは、自分を正しい者としようとするすべてのくわだてや行為から、
神のあわれみへと向きを変えることなのです。
ご自身の作品にたいして、
おしみなく愛を注がれる創造主なる神だからです。
問題なのは、あなたがイエス・キリストにたいして、
どのような態度をとるかということなのです。
つまり、私たちの人生とは何かということを知らせるために、
だから、十字架の出来事が世界に向けて明らかにされたのです。
個人的に言えば、
人生の途上において重要な機会・きっかけとなる出会いを与えるために・・・・。
ターニング・ポイントを与えるために・・・・・。
イエス・キリストの十字架の出来事は、そこにあるのです。
北白川 スー
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Wrote up: 08 September 2009.