あまたある宗教の中の一つなら


 信仰というものを考えれば、

 歴史の中を見れば、古くから伝えられてきた民間の習俗であったり、

 暮らしにかかわる、大切に守り伝えられてきた、

 生活の知恵であったりします。

 安定した暮らしを維持していくためにも、

 必要を覚えて、私たちは何がしかの信仰心というものを持ち合わせています。

 内に秘めた精神性の歩みとでも言うべきものです。

 具体的に説明できなくても、

 価値があるものと信じて疑わないものを持っているものです。

 仮にも、

 クリスチャン自身が信仰しているキリスト教を・・・・、

 仏教や神道や儒教やイスラム教などといった宗教の中のひとつとして・・・・、

 数多くある宗教の中の一つとして捉えているのなら。

 それが、意識せずとも、自分の感覚に合ったもの沿ったものとして、

 それが他が及ばないほどすぐれているから信仰しているというようなものではなく、

 自分の内にある信仰心を満足させるものとして捉えているのなら。

 イエス・キリストが、すべての人のために、

 罪人として十字架にはりつけられ、死をもって、

 すべての人の罪をあがなったという出来事は、

 どのような意味を持つのでしょうか。

 確かに、イエス・キリストを知らなくても、

 十字架の死によるあがないの意味を知らなくても、

 すべての人のために死ぬという意味を知らなくても、

 信仰は持てます。

 しかし、それでは、ごく個人的なもので終わってしまうことでしょう。

 国家に脅威を与えるかもしれない異国の宗教であるキリスト教を迫害していた、

 かの大帝国ローマでさえ、

 国家として必要を認めるからこそ、

 自分たちの魂のよりどころとして、キリストを受け入れたのです。

 それいらい今にいたるまでキリスト信仰を守りつづけています。

 そこに何があったというのでしょうか。

 聖書が語るのは、神の啓示の出来事なのです。

 そこには、すべての人に共通する何ものかがあるはずなのです。

 十字架にはりつけになっているイエス・キリストを見上げて、

 誰であろうが、だれへだてなく身近な存在として、

 かつ共にある存在として、

 その存在から恩恵を受けることのできるものとして意識されるのです。


  「わたしは福音を恥としない。

 福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、

 信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

 福音には、神の義が啓示されていますが、

 それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。

 『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・1章16〜17節・新共同訳聖書)
 (旧約聖書・ハバクク書・2章4節・参照)


北白川 スー

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Wrote up: 26 July 2009.