罪の赦しと救いについて


 キリスト教信仰にとってもっとも大切な、一番大事な事柄であるにもかかわらず、礼拝の説教において語られる機会の少ないテーマが「罪の赦し」と「救い」についてなのです。

 なぜなのだか理解に苦しむことが多いものです。

 「罪の赦し」と「救い」について聞く機会に恵まれず、不十分な理解のまま信仰を持つようになれば・・・、

 罪の赦しと救いについて理解のないまま信仰を持つことだって有り得るのです。

 誇りであったり自我であったり、それらを信仰によって持つことだってできるのです。

 社会の一員として、なんらかの役割や責任を負わされた存在として、

 社会の人間関係にに受け入れられ、それなりの地位を得る・・・、

 信仰することによってそれらが保証されるかのように・・・・。

 孤独感や疎外感に苦しんでいる人たちの多さは・・・、

 自分だけのけ者にされたと感じている人の多さにおどろかされます。

 その怒りを教会に向けるケースの多さにもおどらかされます。

 信仰によって人間としての誇りを持つことができると考えるのです。


 聖書・バイブルは、

 「神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださった方によるようにと・・・」

 「事は、人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・9章11、16節・新改訳聖書)


 人間の意志や努力の結果によるのではなく、ただ神のあわれみによるのです。

 イエス・キリストを通した神の恵みであって、

 人間が作った恵みではないのです。


 「私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。

 それはすでに取り除かれました。

 どういう原理によってでしょうか。

 行いにの原理でしょうか。

 そうではなく、信仰の原理によってです。

 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たの考えです。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・3章27〜28節・新改訳聖書)


 自分の人生や自分自身は基本的に正しい良いものだと信じている人は、

 実は自分というものが不安定な立場にあることなど信じる余地など持ち合わせてはいません。

 自分が迷いの中にあることを自覚するまでは、

 そこから抜け出したいとは思わないでしょうから、

 「救い」についても「罪の赦し」についても理解することはできないのです。


 すべての人間は罪深い存在であり、

 そこから逃れ出ることができないでいるため、

 すべての人は真実を知ることを、また学ぶことをしなければ、

 神の価値観を、神の国を、神の支配を受け入れることも、

 迎え入れることも、

 その中で生きることもできません。


 キリストの教会で、罪の赦しと救いについて、

 つまり、

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖い(あがない)のゆえに、値なしに義と認められるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・3章23〜24節・新改訳聖書)


 くりかえしくりかえし飽きることなく、いつも新鮮なものとして、

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が、

 ひとりの人、神のひとり子イエスが、

 すべての人の罪をその身に負い十字架の上で罪人として処刑されたという出来事が、

 イエス・キリストの十字架による死と、葬りと、復活の出来事が、

 教会の礼拝におけるメッセージで語られなければ、

 罪の赦しと救いについて、

 私たちは知ることも理解することもできないのです。


 「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、

 罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・6章6〜8節・新改訳聖書)


 神の教会だけが、私たちに届けられる神のメッセージを、

 私たちに伝えることができるのです。


北白川 スー

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Wrote up: 15 December 2008.