こころ静かでありたいと
「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
(新約聖書・コリント人への第2の手紙・1章2節・新共同訳聖書)
「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・1章7節・新改訳聖書)
この短い特徴ある文章は、新約聖書のどの書簡でも共通して登場してくる、
書簡の書き出しであるわけですが・・・。
平和とも平安とも訳される、
ここで語られようとしている ” 主にある平安 ”というもの、
人間なら、ストレスに苦しむ不安ではなく、
平安でありたいと、心静かでありたいと、
だれしもが望むものです。
心が静かで、おだやかで安定した気分というものは、どこからやってくるのでしょうか。
欲望を引きずり、願い事で頭がいっぱいなら、
決して心は安らかではないでしょう。
聖書・バイブルは、
信仰は聞くことから始まると語っています。
それもイエス・キリストの十字架の出来事に聞くことから・・・と。
聖書が記述する ” 聞く ”という言葉は、
聞いたことを受け入れ従うことを意味しています。
そこにこそ、救いもあり赦しもあるわけです。
この世界を造られた神の私たち人間にたいする願いは、
私たちが、心を安らかにして生きることです。
決して、欲望を引きずって生きることがないようにと・・・。
言いかえれば、
神にたいして、自分の願い事の実現を求めるのではなく、
神の意思を受けとめること、
神は私たちに何を求めておられるのか・・・。
自分の願い事で頭がいっぱいになっていると神の意思は聞こえてはきません。
信仰の初心者は、
クリスチャンになりたての人は、
得てしてどのように信仰したらいいのか分からないものです。
自分の抱えている不安をどのように処理したらいいのか分からないものです。
さらには、クリスチャンとして、何々しなければならないとか、
何々してはいけないとか。
やってはいけないものとか、やって良いものとかに目や気が行ってしまって、
肝心のイエス・キリストに聞くということがおろそかになりがちなのです。
信仰に生きる・・とは、
行いや行為のことではありません。
神の願いは、私たちが心安らかに生きることです。
人間はすぐに行為行動に走ってしまいます。
それでは逆効果でしょう。
行為や行動に走っているときは、その時間だけは他のことを忘れます。
しかし、すぐにもとの状態に戻ってしまうものです。
残るのは疲れだけかもしれません。
信仰は聞くことから始まるのです。
イエス・キリストの言葉を心に納めて思いをめぐらす・・・。
そこにこそ平安があるのではありませんか。
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事の意味するものは何なのか・・・・を。
はずかしめられ、ののしられ、むち打たれ・・・、
すべての人の罪をその身に負い・・・、
十字架の死にまで従ったイエス・キリスト・・・・。
キリストなるイエスを通して、
私たちに、神の国は現実のものとなったのではありませんか。
私たち人間は、ただイエス・キリストを仰ぎ見るだけなのです。
古い世界は過ぎ去り、すべてが新しくなったのですから。
北白川 スー
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Wrote up on 13 June 2010.