天国とか御国について



キリスト教によく登場してくる「天国」とか「御国・みくに」という言い方があります。
「kingdom of heaven.」と英文では記述され、
「天の国」とか「神の国」と言われるものです。

一般的に、この上もなく幸せな、私たちの世界に対比する形で存在する、
目には見えない世界のことであり、至福の場所・と言われるところです。
天国は御国は、私たちの命のふるさとであり、
そこから私たちはやって来て、また帰るところなのです。
しかし、誰でもが帰れるとは限らないのです。
神の国へのキップを手にしたものしか帰れないのです。

安全で平安で豊かで健康で、なにものも満たされた世界を、
この地上に築くことが神の国ではありません。
決して、地上に神の国を作り出すことはできないのです。
現実の私たちの姿は、罪深い性質を負ったまま終末へとひた走っているのです。
この地上の世界は堕落した世界であり、私たちは迷いの中にあるのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・新共同訳)

神のひとり子こそキリスト・イエスであり、メシア・救い主なのです。

「『主』なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。
『主』なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
『主』なる神は、土(アダマ)のちりで人(アダム)を形づくり、
その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

(旧約聖書・創世記・2章4〜7節・新共同訳)

これが聖書が語る人類創造の物語です。
そこは、善も悪もなく、生も死もありません。
何ものも分けへだてするもののない世界なのです。
すなわち神の国、神の支配によって秩序だてられている国のことです。

しかし人類の始祖であるアダムとエバは、
父なる神の命令に逆らい禁断の果実・善悪の知識の実を取って食べてしまいます。
神から取って食べるなと命じられていた木から取って食べたので、神の怒りにふれ、
さらに土地はアダムとエバによって呪われてしまったのです。

神の怒りにふれたアダムとエバは、地上に落とされ、
苦しんで日常の糧を得なければならなくなったのです。

この出来事いらい、私たち人類は労苦して地上をさまよい歩くことになったのです。

私たちの暮らしの中で起きてくる、さまざまな不安や苦しみや悩みの原因はここにあります。
これを「原罪」と言います。
わたしたち誰もが、生まれたときから背負っている重い負い目のことなのです。

しかし、だれもがそうだとは認めようとはしません。
私たちは「原罪」の支配するこの世界しか知らないからです。
それが不安や苦しみや悩みの原因だとは知らずに、
「原罪」の言うがままになっているのです。

自分の抱えている不安や苦しみ、悩みの原因は、
実は自分の心の中に巣くっている「罪」に源があるとは、
そのことに気付いている人は、ほとんどいないでしょう。
それどころか、自分の苦しみや悩みの原因は、すべて自分の外にあると思っているはずです。
人のせいに、社会のせいに、社会の仕組みのせいにしているはずです。

私たちはみなひとしく、神にたいする負債を背負っているのです。
たとえ、不安や悩みや苦しみの原因が「罪の源」にあると分かっても、それを捨てることもできません。
そこから逃げることもできません。
生きているあいだ、あくまでつきまとってくるものなのです。
私たちは、「罪のない世界」を、はるか遠くに置き去ってきたからなのです。

その世界、すなわち「天の国」とも「神の国」ともいわれる世界を、
はるか遠くに置き去ってきたからです。

しかし、私たちを造られた父なる神は、そのような私たちをあわれみ、愛され、究極的な選択をされました。

それが、神のひとり子イエス・キリストの十字架の出来事、
十字架による死と葬りと復活の出来事なのです。
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事なのです。

父なる神は、ご自身と人類との間に広がる深い溝の架け橋として、
ひとり子イエスを人の子として、この地上に生まれさせられました。

そして、
人としてのイエスは、私たちの負い目の代価を支払うため・あがなうために十字架の上で死なれたのです。
神の怒りを受けて十字架に死なれたのです。
この出来事こそ、キリストの十字架の出来事、
キリストの福音と呼ばれるものです。

私たちが、「罪」に苦しみ、罪を犯してしまう体質から逃げられないことに苦しんでいる自分の姿に気付いたなら。
つまり、滅びに向かってつき進んでいる自分の姿に気付いたなら。

聖書はこう言っています。
「『主』を信じる者は、だれも失望することはない。」
(新約聖書・ローマ人への手紙・10章11節)
(旧約聖書・イザヤ書・28章16節)

自分が罪ある者であることを認め、神のひとり子イエス・キリストを、救い主として、
自分の主として信じる信仰によって救いの道は用意されているのです。
それが「神の国」へのキップなのです。
永遠の命への道筋なのです。

「キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、
そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」

(新約聖書・エペソ人への手紙1章13節・新共同訳)

しかし天国へのキップを手にしたからと言って、罪の体質から解放されたわけではありません。
この地上にいるかぎり、常につきまとっている宿命なのです。
ですから、自分の真実の姿を見失わず、
キリストの福音に支えられ続ければ、
神の国に帰ることができるのです。
それがキリストへの信仰であり、キリストへの信頼なのです。

キリストの再臨のとき、キリストが再び来られるときこそ、
神の国が、神の支配がやってきます。
だからこそ、私たちは、「御国が来ますように」と祈らなければならないのです。

私たちの生は、死では終わりません。
死とは、目覚めるために眠りにつくことです。
そうです、天国に御国に目覚めるために。


北白川 スー

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Wrote up on September 25, 2015.