ひとりの人がすべての人のために



ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が、
すなわちキリストの福音が、
キリストの十字架による贖罪の出来事が語られるところでは、
本性的な、生まれながらの、
人間の弱さ愚かさが明らかとなります。
本当の自分の姿が明らかとなるのです。
いままで気付かなかった、
ありのままの自分の姿が明らかとなるのです。
強がっていた自分という愚かで弱い存在が明らかとなり、
この世界を創造され、
人間をも創られた創造主なる神の前で、
へりくだされ、自分を低くさせられるのです。
自分の思いや言葉や行為行動の見直しを迫られるのです。

「・・・・あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、
その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、
あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、
自分の身に積んでいるのである。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・2章3~5節・口語訳聖書)

キリスト教の信仰とは、
自分の義を、自分の正しさを求めるものではないし、
決して自分の正しさを承認するものではない。
むしろ、その逆なのです。

イエス・キリストは何のために十字架に死なれたのでしょうか。

「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、
罪に支配された体が滅ぼされ、
もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・6章6節・新共同訳聖書)


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

表紙にもどります。

アーカイブスへ。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on January 06, 2013.