キリスト教の信仰は、お金や健康を手に入れるためのものなのでしょうか
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清く貧しく、汚れなく、また、ひたむきで単純な人たちというイメージ・・・。
ひと昔し前の、宗教にたいする一般の人たちの受けとめかたはそうであったでしょう。
しかし現在の見方は、それとは異なったものかもしれません。
珍しいものでも、不思議なものでも見るかのような、
疑いのまなざしで・・・・。
宗教をまたは宗教をしている人たちを見る目というものは・・・。
人の弱みにつけこんで、金銭や財産を巻き上げようと、
金集めのために、信者を増やそうと、
知られては困るのか、最初から素性をあかさず、
カルチャーやサークル、イベントなどの勧誘を装って人を集めたり・・・。
お金とか健康とか不安に思っていることにつけ込むのが宗教だと思われています。
極端な見方のように思われますが、
そうとばかり言い切れないかもしれません。
的を射ているかもしれません。
熱心に宗教している人を見れば、
その人の信仰を、
自分の望みや願いや、
自分の得たいものを当てにする道具のように、
信仰することによって、
見返りを期待しているかのように見えます。
キリスト教にたいしても例外ではありません、
キリスト教への理解がとぼしいこの日本です、
キリスト教をも、たくさんある宗教の中の一つとして、
同じ程度に、同じ視線で見られているのかもしれません。
しかし、キリスト教信仰は、決して、
明らかにできない教えなど何ひとつとしてありません。
すべては聖書・バイブルに明確に書かれているからです。
さらには、現世の利益を求めるためのものでもありません。
キリストへの信仰というものは、
決してお金や健康を手に入れたいがための信仰ではないのです。
健康やお金や家族の無事を手に入れることが幸せだとは考えないからです。
キリストへの信仰が、勤勉や節約や質素を生み出すため、
また、現世の欲望や見栄などをおさえ止めるため、
結果的に財産が増えることになりますが・・・・。
決してキリスト教の信仰は、御利益信仰ではなく、
そうではなく、”イエスによる恵みと平安へと導くもの ”なのです。
恵みと平安・・・、
何とも意味の分からないことを言っているなと言われそうです。
この恵みとは物質的な富のことではありません。
健康のことではありません。
キリスト信仰というものは、
聖書・バイブルが語る、
この世界を造られた”主なる神 ”を本当に信じているのなら、
その神を心の支えに生きて行こうとするなら、
神が与えてくださる人生を、
すべて受け入れなければならないはずなのです。
人間が持つべき神への姿勢というものは、
報わられようが、報われまいが、
たとえ、その人生が波乱に満ちたものであっても、
困難そのものの人生であっても、甘んじて受けるほかないのです。
神の意志というものは、神が人間に望み、
また与えようとされた神の意志というものは、
人間には、とうてい計り知れないものだからなのです。
ですから、その信仰が、報われなくても、
ただ”主なる神 ”に信頼をよせ、あがめ仰ぐときこそ本物の信仰と言えるのです。
愛というものは、その愛が報われようが、報われまいが、
愛は決して押しつけるものではありません。
ただ待つときにこそ、初めて本物の愛と言えるのではないでしょうか。
・・・イエスは、待たれています。
私たちが向きを変えるのを・・・。
現代の日本人の思い描く愛は、
求めたり、押しつけたり、
独占したり、従わせることだと勘違いしているようです。
キリスト教が、伝え、語り続けている”神の愛 ”というものは、
父なる神が私たちを愛してくださったがゆえの出来事、
神の愛の出来事・・・。
イエス・キリストが十字架の上で、
私たちのすべての重荷を背負って、
身代わりとなってその命をささげられた出来事・・・。
それは見返りを求めない、神の一方的な愛の出来事なのです。
ただ、わたしたちの重荷のために・・・その命を。
そのことに気付いた人は、
まことの神を見いだし、
その神に信頼をよせることができ、あがめることができるのです。
言い方をかえましょう。
愛は、神から来ます。
私たちは、まことの愛を持ちあわせてはいません。
互いに愛することが出来ると信じてはいます。
しかし、いさかいの絶えない人間関係が現実です。
ですから、神から愛をもらわなければ、
人間お互いを愛するができないのです。
次の記述は旧約聖書のものです。
文中の”彼 ”とはイエス・キリストをあらわしています。
「まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、
私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎(とが)のために砕かれた。
彼への懲らしめ(こらしめ)が私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい。
おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
(旧約聖書・イザヤ書・53章4〜6節・新改訳聖書)
人間の本性を明らかにし、
人間が生まれながらに持っている弱さ愚かさを明らかにし、
その本性からくる結末からの救い。
それがキリスト教の信仰、
すなわち、イエス・キリストへの信頼なのです。
イエスに聞き従う人生そのものなのです。
北白川 スー
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Wrote up on July 13, 2016.