福音と律法・・良かれと思っても



どの社会でも、どのような組織や共同体であっても、
どこの企業であったも、事業所であっても、
基準となる目標や予算や生産高や効率などが明確にされているはずです。
それらを追求する中で、つまり働いてい行く中で、
人間である以上、
感情というものが邪魔をしてくる場合が出てきます。
個々の者がそれぞれの役割を持って取り組んでいる中でさえ、
ときとして不協和音や混乱が生まれてくるものなのです。

善だと確信しても、
良かれと思ってやっても、受け入れられず混乱を引き起こし、
良かれと思ってやったのに、何か悪いことでもしたのだろうかと、
なんだか逆効果で、罪悪感にさいなまれ、
気持ちは不安と苦しみでいっぱいになります。

自分としては、道徳や人間倫理やヒューマニズムや社会的な習慣に背いてはいないと思ったのに・・・。

混乱の原因だと見てとれる、
その基準となるものが、いかに不合理に見えても、
当然のこととして、
基準は全うされることを求めてきます。
つまり、ままならない義務もあるわけです。
正しいから通るとは限らいのです。
その基準の下にある者は、
任務や責任などを最後までなし通すことを課せられ求められます。
基準が人を縛るのです。

聖書・バイブルは次のように語っています。
「さて、わたしたちが知っているように、
すべて律法の言うところは、
律法のもとにある者たちに対して語られている。
それは、すべての口がふさがれ、
全世界が神のさばきに服するためである。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章19節・口語訳聖書)
「なぜなら、律法を行なうことによっては、
だれひとり神の前に義と認められないからです。
律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章20節・新改訳聖書)

私たちは定められた基準の下で働き暮らしを営んでいます。
しかし・・・・。
その基準に問題があり、
また、その基準を守ろうとする人間にも大きな問題があるのです。
基準を追い求めれば追い求めるほど混乱やいさかいは増し加わってきます。

「いったい、律法は怒りを招くものであって、
律法のないところには違反なるものはない。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・4章15節・口語訳聖書)

律法を守ることによっては救いは来ません。
行ないによってでは救いは来ないのです。
行ないによって、もたらされるのは、ただ混乱だけなのです。
良かれと思っても、混乱が生まれるだけなのです。

「ところが今や、律法とは関係なく、
しかも律法と預言者によって立証されて、
神の義が示されました。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章21節・新共同訳聖書)

律法とは別に、律法の外に、
福音は明らかにされていると聖書・バイブルは語っています。

日本の社会では、混乱のあるところでは、
福音は明らかにはされていません、それが現実なのです。

福音が明らかにされているのなら、いさかいなど起きません。
人はみな、福音の前では静かにしなけれならないからです。
福音には力があります。

福音とは、決して、良かれと思ってやった人への肯定的なはげましではありません。

福音とは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事です。
キリスト・イエスは、すべての罪人のために、
その身を十字架にささげられたという出来事です。

その出来事の内容と意味とが説かれ解き明かされることが、
私たちの存在のすべての意味を解き明かすことになるのです。


北白川 スー

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Wrote up on May 29, 2014.