クリスチャンの結婚・しがらみ
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クリスチャンの結婚というテーマで、連続して考察しているのは、
信者と未信者との結婚という場合であったり、
クリスチャン同士であっても、
結婚の前であっても後であっても、
何かと波風が立つ事柄があるからです。
この連載の中心には、結婚というものは、
二つの意志が一つになるということでなければ達せられるものではないという考え方が支配しています。
二つの意志が一つになる・・・・。
信者と未信者との結婚ということは、
お互い向いている方向が異なる者どうしの結婚を意味しているわけです。
キリスト教的に言えば、
共に祈ることの出来ない者どうしの結婚ということになります。
なんとも頼りない芯柱のない家のようなものです。
何にを拠り所にしようとしての結婚なのでしょうか。
何を支えに結婚生活を送るというのでしょうか。
結婚とは、夫と妻がいっさいのことを、
将来に渡って、共有することです。
そして死がお互いのなかを分かつまで続くのです。
とかく日本では、結婚に人間関係や宗教が持ち込まれてきます。
家柄や血縁、一族に一門、商売関係や利害関係など、
婚姻とは、家と家との結びつきというふうに、
小さな集団と小さな集団との結びつきという要素が、
その地位を大きく占めています。
家に嫁として入ると言うふうに・・・・。
宗教であっても、婚家の宗教になじむようにと・・・。
親戚付き合いというものであっても、
それらの上に成り立つことを前提としているのです。
キリスト者とは、簡単に言って、
それらのものからすべて解放されていることを意味します。
さまざまな人間関係からくる縄目から解き放たれているのです。
結婚とは、神と神の教会の前での契約だからです。
それは、イエス・キリストを自分の主として、
自分の主に聞き従って生きて行くということに表されています。
聞き従うとは、決して盲信を意味しているのではありません。
わけも分からずに、ただ信じ込むことではないのです。
自分の弱さ愚かさを認識して初めて、
聞き従うべき存在も明確なものとなり、
自分を律することができるのであり、自立すらできるのです。
かたやキリスト信仰に根ざしていない人は、
何に結婚の価値を見出しているのでしょうか。
聖書は次のように語っています。
「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」
(旧約聖書・創世記・2章24節・新共同訳聖書)
男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる・・・。
この日本においては、この言葉は、なかなか理解されないものです。
日本では、人間関係にこそ結婚の価値を見いだしていると言ってもよいでしょう。
共同体の中では、流れが乱れたり止まったりしないように、
それなりの、やり方やおきてのようなものがあります。
聖書・バイブルが語る父母を離れとは、
共同体から離れ、
新たに一個の独立した関係を築くことです。
新たな創造と言っていいでしょう。
しがらみを引きずることではありません。
男と女が・・・、
油と水の関係といって言っていいくらい本性の異なる者どうしの結婚ということですから、
その違いをお互いに認識するところから、すべては始まるのではないでしょうか。
向いている方向が異なる者との間に横たわっているものによって引き起こされてくる問題は、
互いに向きが異なっているのだという確認と同意があれば、
引き起こされてきた問題を問題としないところから始めなければならないのです。
違いを持ち出すのではなく、違いを認め合うことから始まるのです。
結婚への道のりというものは、
人生において他者の愛を見いだした最高の喜びであるはずです。
しかしその愛について、信者と未信者とでは、まったく意を異にします。
キリスト教では、人間的な愛よりも、「神の愛」を最も大切なものと考えます。
神ご自身も愛を求められ、その愛によって自らの命をささげられたのです。
創造主が被造物を愛するがゆえに、
作者が作品を愛するように、
私たちを愛するがゆえに、
神のひとり子イエス・キリストが、
その命を十字架になげうち捨て去られたという出来事がそれです。
人が人を愛すると言うところの愛は、けっして神の愛ではありません。
私たちの愛というものは、ときとして消えることもあるでしょう。
何かと自己本位であり、なんとも忍耐の乏しいものではないでしょうか。
しかし、神の愛・すなわち十字架の出来事に現わされた愛は、
「すべてをがまんし、すべてを信じ、
すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。
預言の賜物ならばすたれます。
異言ならばやみます。
知識ならばすたれます。」
(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・13章7〜8節・新改訳聖書)
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、
すべてに耐えるからです。
神の愛は決して絶えることがない・・と語ります。
キリスト教では、人間的な愛に頼るのではなく、
神の愛にこそ頼ることを教えます。
キリスト教信仰における結婚というものは、
神と神の教会の前でお互い誓い合うということを前提とします。
神の前で誓う以上、死が二人を分かつまで、その結婚は続くのです。
人間関係に根ざした結婚ともなれば、
その利害関係によって、その結婚は建ちもすれば倒れもするということになります。
共同体の秩序の維持には、
血縁や地縁や一家一族一門というしがらみやつながりを、
結びつきの最も重要な柱として、中心として位置づけておけば、
その結束は強固なものになるという考え方です。
それがうまく作用していればいいのですが、
いったん破綻が起きれば、
その亀裂はさらに深いものになることでしょう。
実際は、決して結び合わされたものではないからこそ、
その結び合わせ方に、
形式にこだわり、形式にのみ重視して結び目を作り上げ、
お互いに締め付けあわさせようとして、
複雑な義務を負わせようとしているからなのです。
このように色々と考えて見ますと、
信者と未信者との結婚こそ、
複雑な人間関係や宗教というものを持ち込まず、
本当に二人の意志が一つになることでなければ成り立たつものではないと痛感させられます。
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。
そのことによって、わたしたちは愛を知りました。
だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」
(新約聖書・ヨハネの第1の手紙・3章16節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on February 14, 2016.