神の前で生きる・・・忘れてしまったもの
すべての人は、生まれたときから罪深い存在なのだという・・・、
もともと罪深い存在なのです。
問題の多い・・・罪人なのです・・・。
たいていの日本人は、自分は罪深い存在なのだという感覚は持ってはいないでしょう。
罪人呼ばわりされることを、もっとも嫌うのが日本人の特質かもしれないのです。
さて・・・・・。
この世界を創造された神・・・・。
この世界を支配している神・・・・。
この世界を手の中におさめている神・・・・・。
とても大きな存在感を感じさせる神・・・・。
その神と共にあるとか、共に生きるとか・・・・・。
日本人にはそのような感覚は、まずないのではないでしょうか・・・・・。
まことの神の前で生きているという感覚はまずありません。
ましてやその神が、絶対唯一の神であるなどとは。
私たちは・・・・、今、自分が何をしているのか、
どういう状況に置かれているのかさえ、自分ではよく分からないのです。
だから神の存在すら認識できないでいます。
自らが求め望んでいる自らが作り出した世界を手に入れることが自分自身の最高の望みであって、もっとも価値があることなのだと信じています。
私たちは、とくに自分自身を主張しますし、
私たちは、すぐに切れたり怒ったりもします、
うそをつきますし、わがままも言います。
不満や不平であっても毎日のように覚えています。
それが普段の日常の生活なのです。
キリスト教では、そのような状態を、
それが、何よりもまことの神を無視している証しであり、
ほかならぬ ” 偶像 ” をあがめていることになると考えます。
自分を特別な存在だと押し通し、
まことの神を無視し、
人や物によりかかったり、
人の手によって作られた物をあがめる行為こそ罪なのだと・・・・・。
まことの神から見れば、
それは裁きの対象なのです。
神は怒っておられます。
私たちは、この世界を造られた創造主によって造られたと聖書は語ります。
美術や芸術の世界でもそうなのですが、
作品は作者をあらわしているものなのです。
作品から作者を、おしはかることができます。
人間は神に似た存在として、
創造主なる神によって、
もともと素晴らしいものとして創造されたのです。
が、しかし・・・・、
その神に背き、神から外れた行為に走ってしまった最初の人間アダム・・・・。
結果・・・それに続く人類は、
ことごとく罪を背負って労苦して人生を歩まなければならなくなったのです。
その姿こそ現実の私たち人間の姿そのものなのです。
罪のあるところには、裁きがあります。
しかし私たちは、罪のあるところには裁きがあるなどと考えもしない・・・・。
アダムに続く私たち人間は、みな救われない状態にあるのです。
「・・・・神を知っていながら、
その神を神としてあがめず、感謝もせず、
かえってその思いはむなしくなり、
その無知な心は暗くなった・・・・・。」
(新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・1章21節・新改訳聖書)
罪人のまま人生の死をむかえれば、
神の裁きは、判定は、
永遠に続く苦しみを受ける地獄行きなのです。
ですから、生きている間に罪の赦しが必要となり、
罪の赦しを得れば、永遠の命が約束されるのです。
そのためにも、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事・・・、
イエス・キリストの、十字架の死によるあがないの出来事の意味が生きてくるのです。
私たちは罪人であること、
そこから救い出すものこそ、イエス・キリストへの信頼なのです。
私は正しいから神の助けが来るのではなく、
罪人だからこそ神の助けが必要となるのです。
北白川 スー
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Wrote up: 29 October 2009.