クリスチャンを見る目
清貧、聖人君子なクリスチャン、
日本の社会では、クリスチャンと言えば聖人君子のように思われている。
自分を見失うこともなく、
ささいなことにこだわらず、くじけたりもしない・・・。
地位やお金とは縁の遠い生活・・・・・。
いや、それはただの思い込みである。
クリスチャンであってもそうなのだ、
そうあるべきだとか、そうあるように努力を重ねなければならないとか・・・。
だから、まわりからそのように見られないとなれば、クリスチャンとして失格だとさえ自分に言い聞かせもする。
さらに、
人はキリスト教の教会に何を期待し求めているのだろうか。
教会なら、自分の義を、自分の正しさを認めてもらえると期待して・・。
自分の生き方にたいして肯定的な言葉や、
励ましの言葉や扱いを期待して・・・・・。
だがしかし、
それらが、キリスト教が言うところの「福音」や「救い」というものなのだろうか。
明確に言わなければならない。
そうではない・・・・と。
キリスト教の教えとは、
教会は、罪人の共同体であると。
キリスト教の教えは、
病んでいる人間の姿を明らかにします。
だれひとりの例外もなく人は愚かで病んでいるのです。
それだから「救い」というものも成り立つのです。
何によって救われるのか、
それは、イエス・キリストへの信仰のほかに何もありません。
だれひとりの例外もなく、すべての人は罪人であり、
罪人の行いによってでは救いは来ないし、決して得られません。
なぜイエス・キリストへの信仰なのでしょうか。
イエス・キリストが、すべての人の罪をその身に負い、
罪人として十字架にかけられ死刑となった出来事・・。
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざを信じる信仰によって・・・。
この、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事の内容と意味とが、
キリスト教の教会で解き明かされないなら、
教会でイエス・キリストの十字架の出来事が解き明かされないのなら、
つまり、”罪について””罪の赦し” ”罪人の救い ”について語られないのなら、
何からの救いなのか・・・が語られないなら。
清貧で理想的なクリスチャンの姿という、
目指しても到底得られそうにないものへのはかないあこがれと努力につぶされてしまうクリスチャンが生まれてくるのです。
現実には、
とうてい得られそうにないものへのはかない努力とあこがれとにつぶされてしまうクリスチャンの多さが目立つ日本の教会事情なのです。
私たちは、だれひとりの例外もなく、
道に迷い、愚かで、病んでいます。
それが現実の社会、現実の人間の姿なのです。
クリスチャンであってもそうです。
決して清貧で聖人君子のような人間ではありません。
クリスチャンであっても罪人なのです。
ただ、イエス・キリストに、
聞き従う信仰によってのみ、立っているだけなのです。
”罪を赦された罪人として "、
イエス・キリストを自分の主人として見上げ、
主イエスにリードされガイドされる人生を送っているだけなのです。
現実の私たち人間の姿は、
「何をしているのか自分ではわからないのです。」
「自分が何をしているのか知らないのです。」
「何をしているのか、わからずにいるのです。」
イエス・キリストが、死を前にして十字架の上で語った言葉です。
私たち人間に向かって・・・。
北白川 スー
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Wrote up: 06 March 2010.