決して、がんばってはいけない



どうもこの日本では、がんばることが美しいことで、
もっともすすめられる、人を救う徳のように思われています。

自分を信じて、自分を可能なかぎり活かしていく生き方が、
美しく、善いことで、
それをしたほうが良いことがあると、
欲しいものを手に入れることができるとさえ思われています。
がんばることが希望を引き寄せるのだと。

クリスチャンであっても例外ではありません。
信仰とは、信仰とヒューマニズムをひとつにしたもののように、
行為や行動に、がんばることだと、
社会運動やボランティアに力を注いでいる信徒もいます。
しなければならないとさえ思っているクリスチャンもいます。

しかし、聖書・バイブルは、そのようには言っていません。
むしろ、その逆なのです。

”神の創造をないがしろにしている ”のは人間であって、
いいかげんでいいとは言わないまでも、
がんばってはいけないのです。

破滅へと突き進んでいる社会に、
ブレーキをかけるのが福音ではありませんか。

福音すなわち、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事は、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事は、

私たちは、ひとりの例外もなく、
救われなければならない存在であって、
この世をさ迷い歩く罪人であることを示しているのです。

私たちの思いや言葉や行為や行動といったものは、
すべてについて疑ってもいいのです。
いや、そうあるべきなのです。

「次のように書いてあるとおりです。
正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。
ただの一人もいない。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章10〜12節・新共同訳聖書)

信仰とは何でしょうか。
人間は、ひとりとして正しい人はいないのですから、
自分の弱さや、他人の弱いところを、
気がねせずに、冷静に、おごらずに、見つめることができるはずです。
ものごとを、落ち着いて、ありのままに見つめることができるのです。
ですから、信仰は、決して人を批判するものではありません。
人を見下した祈りをするものでもありません。
決して人を縛るものではないのです。
信仰は、無理にさせるものでもないし、自由でいられるのです。

「だれも自分を欺いてはなりません。
もし、あなたがたのだれかが、
自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、
本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。
この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。
・・神は、知恵のある者たちを、
その悪賢さによって捕らえられる・・と書いてあり、」

(新約聖書・コリントの信徒への第1の手紙・3章18〜19章・新共同訳聖書)

聖書・バイブルは、
人は、基本的に、愚かで弱い存在だと示しています。
人は、正確にものごとを見ることができないのです。
このような認識に立たなければ、
そこから、抜け出すことさえ出来ないと言っているのです。

明確にしておかなければならないのは、
人は基本的に愚かで弱いという認識に立つことは、
決して、みじめさでも何でもないのです。
そのような認識に立つことこそ自由の始まりなのです。
信仰は人を束縛から解き放ち、明日への希望を与えます。

罪人だからこそ、
信頼を寄せる存在を持つことできるわけですから。
自分は弱くて愚かだと分かれば、
神の言う通りに生きることを受け入れることも容易なのです。

自分のやり方や考え方、
生き方が正しくて間違いがないと思うなら、
神など必要とはしません。
自分には力や知恵があると思うなら、神など必要とはしません。
神を必要としない人は、
神ではなく、必要とするのは、人からの同意でしょう。
それこそもっとも難しい要求です。

自分を疑ってこそ、自由な目が持てるし、
神という概念をもとらえることができるのです。

自分を信じようとすればするほど、迷いは大きくなります。
救われなければならないのは、
私たちであることを忘れてはいけません。


北白川 スー

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Wrote up on April 24, 2014.