心に平安がない



イライラ・プリプリ・・・と心に落ち着きがなく、眠れない夜さえあります。
心が騒いでいるようでは、平安とか平穏無事という言葉からほど遠い状態でしょう。
だれしも静かな、おだやかな時間を過ごしたいものです。
いえいえ、充実した人生を、生きがいを感じとれる人生にしたいのです。
おだやかな時間を過ごすにしても、ワクワクして待つことのできるものを持っているにしても、
どちらも心は平安で満ちているはずです。
どちらも、明日が見えているからです。
ゴールが見えているからです。

心に平安のない人は、
どこに行くにしても、いつも不安と恐れがつきまとっているはずです。
自分は、どこへ行こうとしているのか分からないからです。

そのように、多くの人が不安の中に暮らしています。
それが現実です。

その人の行いが悪いからですか、いいえ、そうではありません。
自分の姿が見えていないだけなのです。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23〜24節・新共同訳聖書)

聖書・バイブルは、
すべての人は罪を犯す性質を持っているので、神の栄光に輝く・・救い・・というものに、
自分の力や知恵では到達することが出来なくなっていると語っています。

私たちは、本質的に本来的に、神の標準にほど遠い存在なのです。
キリスト教では、このことが前提となっていますので、
私は正しい、私は罪など犯していないというのなら、話しはここで終わりです。
何の変化も起こりません。

私の考えは正しい、私の立場は正しい、私は罪など犯していないと考えているからこそ、
苦しみや不安がそこから始まっていることに気づいてください。

心に平安がない人は、
自分が今いる場所にとどまっているかぎり平安などやっては来ません。
いくら、もがきあがいても平安はやっては来ません。

この世界の真実を、隠されている真実を明らかにしないかぎり、

本当の自分の姿を、自分の命というものの本当の姿を知らないかぎり、
世界の見方が変わらないかぎり、ものの見方が変わらないかぎり、
平安などやっては来ないことに気づいてください。

自分の姿が見えていないし、周りも見えていないのです。

私たちの本当の姿を知らないかぎり、そこからの脱出の道も明らかにはなりません。
聖書・バイブルは、人が不安で苦しみもがいている状態こそ、罪の中にある状態そのものだと、
つまり、「すべての人は罪人」なのだと語っているのです。

平安になりたい、安心を得たいと思っていても、
心の奥底に隠されているものが不安や心配や恐れを作りだしているのです。
心の奥底に隠れているものに、振り回されているのです。

では、どうすればいいのでしょうか。
まず、最初からもっとも高いハードルなのですが・・。
自分自身に正直に向きあうこと、
そして自分は罪深い存在なのだと認めることから始まるのです。
立ち止まり、静まることが、まず第一です。

そして、罪深さから抜け出し清められるように・・・、
さらに、新たなものに造り変えられるように・・・と。

今だかつて経験したことのない、もっとも大きな転換点を迎えようとしているわけですから、
あくまで今の自分にこだわっているのなら、このハードルは越えられないことでしょう。

本質的に人間は罪深い存在だということを考えてみましょう。
ひとりの例外もなく、人は皆、生まれながらに弱く愚かな存在だということです。
本性的に人間の持っている罪深さという性質や状態というものを「原罪・ゲンザイ」と言います。

人間はもともと、創造主なる神と良い関係にありましたが、
人間の始祖であるアダムとエバが、父なる神に背き、聞き従わない状態を選んでしまったため、
その結果、神との間に深く大きな溝をつくってしまったのてす。

しかし、父なる神、創造主なる神はは、ご自身に背くようになった人間を愛しておられました。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」
(旧約聖書・イザヤ書・43章4節・新改訳聖書)

作者は作品に対して大きな愛を持っています。
そして、私たちに大きな愛を示されたのです。
「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
ひとり子を信じる者が、ひとりも滅びないでく、永遠の命を得るためである。」

(新約聖書・ヨハネの福音書3章16節・新共同訳)

それが、イエス・キリストの十字架の出来事なのです。
「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章24節・新共同訳聖書)

「贖いの業」・あがないのわざ・とはイエス・キリストの十字架の出来事のことです。
イエスの死と葬りと復活のことなのです。
父なる神との和解の出来事なのです。
私たちに代わって、罪人として十字架にかけられ、神の怒りの裁きを受けられたのです。
罪のない、神のひとり子イエスは、その命を代価として、私たちの罪科を支払ってくださったのです。

神との間にある深く大きな溝を取り除くには、
「あがないのわざ」をなされたキリスト・イエスを自分の「救い主」として、
人生における、自分の「主」として受け入れることなのです。

キリスト・イエスに、”聞き従っていく人生 ”を送ることを受け入れることなのです。

日本では、神に頼って生きていくなんて弱い者のすることだと思われていますが、
人生を歩んで行く上で、”良き師 ”良き指導者を持つこと、
そして、その方から学ぶことの大切さは良く知られているはずです。

自分を支え、自分の力となってくださる大切な指導者を持つこと、
その方と共に歩むことによって、人生を成功へと導く・・・・。
なんと素晴らしいことではありませんか。

心に平安のない人は、人に弱みを見せまいと、何事も自分の力でやろうとはしていませんか。
自分の経験だけに頼らず、自分の非を認め、
どうすればいいのか積極的に聞いていく、そして受け入れる。
私たちは何も見えていないのですから。
かたくなな心を砕いて、柔軟な心になりましょう・・・・。


北白川 スー

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Wrote up on June 18, 2015.