東日本大震災・・天災と人災


 聖書・バイブルは、この世界を造られた創造主なる神は、

 私たち人間を、神に似せた素晴らしい存在として創造されたと語っています。


 「 神は自分のかたちに人を創造された。

 すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」

 (旧約聖書・創世記・1章27節・口語訳聖書)

 「 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。

 見よ、それは極めて良かった。・・・・」

 (旧約聖書・創世記・1章31節・新共同訳聖書)


 世界を非常に良い状態で創造されたにもかかわらず。

 それなのに。

 神がいるのなら。

 神が慈悲深い存在ならば。

 神は私たち人間を、あわれみ、いつくしむ存在であるなら、

 なぜ私たちに、このようなひどい目にあわすのか・・・・。

 人間が、”神のかたち ”として造られたということは・・、

 聖書・バイブルは、人間の罪についてその多くを語っているわけです。

 その視点から見てみますと。

 神のかたちに創造されたということは、

 罪を知り、罪を犯す能力も、罪を犯さない能力も、ともに備わっていたということです。

 パーフェクトな、非のうちどころのないものとして造られた人間は、

 神の作品としての人間が、

 その創造主なる父なる神から離れて、

 自分の判断によって生きようとしたときから・・・、

 人類の堕落が始まったのです。

 人類の堕落が始まりは、

 アダムが神に背いて禁断の果実を取って食べたというエデンの園の出来事に始まるわけです。

 神の作品として、

 作者に栄光を帰す存在として造られたにもかかわらず、

 自分の判断で生きようと・・・決めた瞬間、

 その瞬間が人間の罪の始まりなのです。

 その瞬間、人間は罪を犯さないという能力を失ってしまったのです。

 人間は本性的に、生まれたときから、

 罪を犯さざるをえない存在として、この世界に生まれてくることになったのです。

 東日本大震災は、天災であり、また人災だと言われています。

 地震と津波とは、大自然の地球自身の営みです。

 しかし、被害を大きくしたのは人間の成せるわざなのです。

 地球の営みと共存していく暮らしこそ、

 私たちの存在であったはずなのです。

 しかしながら、私たちの欲望は、

 地球の営みに大きく反してしまっていたのです。

 神なのに・・・と言って、

 神を天から引きずり下ろそうとするたくらみこそ、

 人間の大きな罪と言っていいでしょう。

 その罪の報いは、かくも大きく深い傷跡を残すのです。

 明治、昭和、平成と、この百年あまりに三度も経験した三陸地方の大津波・・、

 なぜ、痛みや苦しみや悲しみの経験を生かせなかったのでしょうか。

 人間が、”神のかたちとして復活するとき ”こそ、

 再び、神とともに平安に暮らせる時代ではないでしょうか。

 そのキーワードこそ、

 神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝く光・・・。

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なのです。


北白川 スー

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Wrote up on 18 April 2011.