イエス・キリストを知らないクリスチャン
イエス・キリストを知らないクリスチャン、
その信仰から抜け落ちているキリスト・・
キリスト教の信仰を、キリストを知らないまま、イエス・キリストの十字架の出来事を、
イエス・キリストが、十字架刑によってすべての人の罪をあがなったという出来事を、
十字架の上で罪人として罰せられたという出来事を、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事の、
その意味と内容を知らないままでも信仰は持つことは出来ます。
しかしその信仰は苦しみに満ちたものでしょう。
現実にその信仰からキリストが抜け落ちている多くのクリスチャンを見受けます。
なぜなのだろうかと思わせるのです。
教会の礼拝の説教・メッセージにおいて語られているのだろうかと、
イエス・キリストの十字架の出来事の意味と内容が語られているのだろうかと・・・・。
すべての人間には罪があり、生まれながらに背負っている罪「原罪」があるということが、聖書・バイブルには当然のように語られているわけなのですが。
救い主メシアとしてのイエス・キリストが生まれたということは、
世界が神の目から見て堕落している証拠なのです。
「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16節・新改訳聖書)
生まれながらに負っている罪深さという性質が、
思いとなって、言葉となって、行動となって表にあらわれてくるのです。
私たちが覚える苦しみや、
どうしたらよいか迷ったり、
困難な状態や、苦悩などになってあらわれてくるのです。
私たちの具体的な行動や言葉や思いよりも、
さらに深いところにあるもの、
私たちのあらゆる思いや行動といったものの源となるもの、
私たちはときどき罪を犯すから罪深いのではなく、
もともとから、常に罪深いから、ときどき罪を犯すのだと・・・。
それが罪だとは気づかずにです、だからたちが悪いのです。
だから、キリスト教の信仰とは、キリストへの信頼です。
イエス・キリストが、自らの命と引き換えに、私たちの罪をあがなってくださったから・・・・。
イエス・キリストに聞き従うことへの意味が生まれてくるわけなのです。
イエス・キリストに聞き従うことによって、
苦境から、苦悩から解き放たれるのです。
「 イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。
人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章3節・新改訳聖書)
自分の考え方ややり方に縛られている多くのクリスチャンを見受けます。
キリストに聞き従うことの意味を知らないまま・・・・・・。
神を知り、神と共に歩もうとする姿勢・・、
それがキリストへの信仰・信頼ではないでしょうか。
北白川 スー
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Wrote up: 01 February 2009.