チャンスがトビラをたたく



何をするにも、仕事でも勉強でも家庭でも、
人間関係でも、恋愛ですら、つねに困難な状況はおきてきます。

その状況を自分にとってプラスに受けとめるのか、
それともマイナスに受けとめるのかによって、
後々の人生は、大いに変わってくるはずです。

しかし、そのように捕らえることができない人もいます。
そのような人は、何かが起きているのか。
その状況の内容と意味とを正確に理解できていないかもしれません。
今ある状況に酔い続けているのかもしれません。
自分の利益だけを守るのみで、だれに対しても平等ではないのでしょう。
公正な見方や論理性に欠けているのかもしれません。

客観性を持ち合わせていない人は、
成長や発展はないものと考えたほうがよさそうです。

「わたしは、あなたの行ないを知っている。
あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
目をさましなさい、
そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。
わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
だから、あなたがどのように受け、また聞いたかを思い出しなさい。
それを堅く守り、また悔い改めなさい。
もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。
あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」

(新約聖書・ヨハネの黙示録・3章1〜3節・新改訳聖書)

「わたしは、あなたの行ないを知っている。
あなたは、冷たくもなく、熱くもない。
わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」

(新約聖書・ヨハネの黙示録・3章15〜16節・新改訳聖書)

神という方は、なかなかきびしい方です。

私たちは、自分を十分に活かして生きて行きたいと思っています。
しかし、動きがはげしくついて行くことができないほど、
忙しい現代社会に生きている私たちです。

そのような中にある私たちに向かって神は、
大いにそのヒントを与えておられます。

神が私たちに求めている、私たちの姿勢というものは。
チャンスがトビラをたたく音に耳を傾けること、
そして、大変な状況だと思えるようなときですら、
トビラをたたくノックの音を聞くように耳をすませば、
常に、私たちにたいして、素晴らしい道が開かれことを教えています。

「わたしは、愛する者をしかったり、こらしめたりする。
だから、熱心になって、悔い改めなさい。
見よ、わたしは、戸の外に立ってたたく。
だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、
わたしは、彼のところにはいって、
彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

(新約聖書・ヨハネの黙示録・3章19〜20節・新改訳聖書)

宗教や信仰というものは消極的なもののように言われますが、
なんのなんの、キリスト教信仰というものは、
とてもポジティブな積極的なものなのです。

また聖書・バイブルがあらわす人間の歴史はというものは、
神に背を向け続けた人間たちの歴史です。
現代でもそうです。
人間関係に共同社会に、争い、貪欲、飢餓と、数えればきりがありません。

神は、そのような人間にたいして、忍耐づよく見守り、待ち続けられました。
しかし、父なる神は、そのひとり子イエス・キリストの十字架の出来事によって、
キリストの生と死と葬りと復活という出来事によって、
神の意志をはっきりと私たちに示されたのです。
ご自身のひとり子イエスの命を差し出すという出来事において、
私たちの心のトビラをたたかれたのです。

わが子よ・・・・・聞けと。

しかし、私たちは依然として、
少しも前と変わらず元の通りなのです。
無いものを、有るかのように探し続けている私たちなのです。


北白川 スー

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Wrote up on July 03, 2015.