ありのままの自分の姿に気づかなければ


 キリスト教は、当然のように ”人間の救い ”について語るわけです。

 人間は窮地に追い込まれていると、

 かんたんには逃れられない苦しい立場に追い込まれているわけです。

 しかし、人はそれを認識することすら困難なのです。

 言い換えれば、

 人は、最も自分自身の姿が見えていない。

 ありのままの自分の姿が見えていないのです。

 ありのままの姿が見えなければ信仰へと進ませることは、

 イエス・キリストへの信頼というものは持てないし育たないのです。


 「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。

 誰がそれを知りえようか。」

 (旧約聖書・エレミヤ書・17章9節・新共同訳聖書)


 人間にそれを知らしめる出来事こそ、

 ひとりの人がすべての人のために死んだという・・・出来事。

 神のひとり子であるイエス・キリストが、

 メシア・救い主として、また "人として " この世界へ生まれたということであり、

 イエス・キリストの十字架の死による贖い (あがない) の出来事なのです。

 救い主・イエス・キリストがこの世界に来られたということは、

 この世界を造られ、私たち人間をも造られた神の目から見て、

 私たち人間が、逃げることも救われることもできないほど、

 つまり罪深い状況に、また立場に追い込まれている証拠なのです。

 私は罪など犯していないと言う人があるとすれば、

 自分は正しくまわりが悪いとでも言う人があるとすれば、

 まさしく、ありのままの自分の姿が見えていない証拠なのです。

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事の意味していることは、

 だれひとりの例外もなく、

 私たち人間はすべて罪深い存在なのです。

 すべての人は罪の下にあるのです。


 「義人はいない。ひとりもいない。

 悟りのある人はいない。

 神を求める人はいない。

 すべての人が迷い出て、

 みな、ともに無益な者となった。

 善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章10〜12節・新改訳聖書)


 キリスト教では、生まれながらに負っている罪深さ、

 すなわち「原罪(げんざい)」という教えに立っています。

 私たち人間のすべての行為や思いや言葉などの、

 その背景には、

 原罪があるのです。

 だからと言って、自分の力で救いを勝ち得ることなどできないのは、言うまでもないことです。

 だから信仰があるのです。

 つまりイエス・キリストへの信頼であり、

 イエス・キリストに聞き従っていく人生なのです。


北白川 スー

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Wrote up: 16 February 2010.